壇城 (だんのじょう) (庄ノ城)
所在地 富山県砺波市庄川町庄88 2014.10.24
壇城 (だんのじょう) (庄ノ城)
所在地 富山県砺波市庄川町庄88 2014.10.24
弁天温泉
石垣
城跡碑・説明板・主郭
説明板
主郭
主郭
壇城 曲輪跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 弁天温泉(表記番地)の東の一段高い畑となっているところが、館跡であり、案内板が建てられているが、あまり面影は無い[マップコード122 329 320*13] 。弁天温泉より眼下に県道11号線の鉄橋が架かる庄川が望める。
後方の三条山山頂には千代ヶ様城(ちよがためしじょう)があるが、壇城は平時の居館とし、山頂の城は「詰城」とする「一城別郭式」の城郭と云われている。
昭和六十二年(1987年)3月、砺波市の指定文化財に指定された。
【発掘調査】 昭和五十八年試掘調査の際、多くの遺物のみならず柱穴、礎石、炭化層などの遺構が広範囲に確認され、興廃を重ねたことが明らかとなった。
【歴史】 正平年間(南朝暦・1346~70年)、南朝方で足利一門の有力者の越中国守護・桃井直常が壇城を築いて拠り、砺波郡一帯に越中国一乗寺城、井口城、野尻城、加賀国松根城などの支城を築き支配した。
応安元年(北朝暦・1368年)八月、対桃井強硬派の斯波義将が越中国守護に任じられ能登国守護吉見氏頼らと共に桃井氏討伐を開始した。翌年、義将の配下二宮円阿によって攻められ落城した。
永正七年(1510年)、越後国守護代長尾為景が長森原の戦いの後に一時期居住したと云う。
天文年間(1532~55年)、越中国木舟城主・石黒成綱の弟、石黒与三右衛門が拠った。
天正四年(1576年)、上杉謙信によって攻められ落城、与三右衝門は庄ノ城を退去した(因みに天正九年(1581年)七月、織田信長に近江国長浜へ呼び出された成綱や与三右衝門ら一族三十人が丹羽長秀配下の兵により謀殺されている)。
一説によると神保氏が拠っていた折、佐々成政に攻められ落城したとも云われているが確証はない。廃城年代は不明である。