三木城 (みきじょう)
所在地 三重県尾鷲市三木浦町391 2016.4.26
三木城 (みきじょう)
所在地 三重県尾鷲市三木浦町391 2016.4.26
登城ルート(緑は城山)
三木小学校
五輪塔
城山入口
城山・説明板
説明板
城山頂上・満州事変三周年記念の碑
三木新八郎居館跡
三木城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道311号線より右折して三木小学校(表記番地)に向かい、坂の途中に路肩駐車した[マップコード808 554 195*82]。
三木小学校(表記番地)が城跡であり遺構は無いが、三木浦を見下ろす絶景が広がっている。
物見であった南西の城山(地図)のみがわずかに往時の面影を残しており、狭い頂上に説明板、「満州事変三周年紀念」の石碑、鉄塔が建てられている。社は崩れて屋根のみ残っていた。
また、小学校との間に、五輪塔が安置されている(五輪塔の詳細のみで、三木城跡との関連は残念ながら記されていない。)。
三木里小学校(尾鷲市三木里町638)の南西に石垣の残る三木新八郎居館跡がある。
【構造】 本丸・二ノ丸は現在三木小学校の敷地となり遺構は無い。『紀伊続風土記』には「三木城の本丸は東西12間、南北13間、二の丸は50間に14間、城山周り3町半、三方海にのぞむ」とあり、また「城山に小祠を建て神をまつり、元禄年中ここに八幡大菩薩とすかした矛盾を掘り出した」と記されている。
【歴史】 戦国時代、三木浦の武将三鬼新八郎の居城であった。
堀内新宮城主堀内氏善(うじよし・熊野水軍の将)は勢力拡大のため三木城を攻め、三鬼新八郎は九鬼嘉隆の援軍を得て追い払った。堀内氏善は一計を案じ、九鬼嘉隆の娘を妻に迎えて三鬼新入郎の孤立を図った。
天正三年(1575年)に堀内氏善が攻めてきた際には九鬼嘉隆は三鬼新八郎を支援せず、城は落城し、三鬼新八郎は奈良県の上北山村(尾鷲市の西隣)へ逃れたものの、堀内氏善の配下により討たれた。
堀内氏善は少しの兵力を残して新宮に帰った。それを狙って長島城主加藤甚五郎は奥村氏と三木城を攻め落とし、在城した。
これを知った堀内氏善は天正四年(1576年)、2千の兵力を率いて夜討ちをかけた。加藤甚五郎の軍勢は多数の死傷者を出しながらも何とか本拠長島城に戻った。
その後、三木城は三鬼新八郎の息子三鬼甚六が城主になった。