下田城 (しもだじょう) (鵜島城)
最寄地 静岡県下田市3丁目17-18 2014.7.1
下田城 (しもだじょう) (鵜島城)
最寄地 静岡県下田市3丁目17-18 2014.7.1
登城ルート
公園入口・城址碑
天守台跡下・鵜島城址碑
天守台跡
天守台南空堀
本丸南の堀切
お茶ヶ崎
下田城 天守台跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【案内・感想】 県道117号線に面して下田公園駐車場(表記番地)が用意されている[マップコード248 023 119*21]。
駐車場前に「下田城址」の石碑が建てられており、南に遊歩道を登ると「カーター記念碑」、「開国記念碑」の建っている広場がある。
途中から東に行くと「馬場ヶ崎展望台」があり、そこから寝姿山や「道の駅開国下田みなと」、下田港岸壁、そして下田湾などの絶景が望める。
500mほど登ると、「鵜島城址」の石碑が建つ天守台跡下に着く。階段を登ると馬の背状に東西に二つのピークの本丸があり、東端に天守台跡がある。天守台などから北に下田市街や下田港などが望める。
天守台跡の南に切通し、空堀が保存されている。南に行くと堀切があり祠が祀られている。
更に南に行くと出丸跡の「お茶ヶ崎」(地図)があり、四阿からは眼下に下田海中水族館や下田湾の絶景が望める。
【歴史】 後北条氏は当城を小田原水軍の根拠地とし、玉縄衆の朝比奈孫太郎が入っていた。
やがて天下統一を進める豊臣秀吉と小田原後北条氏の対立が表面化した天正十六年(1588年)伊豆衆の清水康英を城将とした。
天正十七年十二月から翌年にかけて籠城の準備が行われ、雲見の高橋氏、妻良(めら)の村田氏等の南伊豆の武将が城に入り、小田原から副将として江戸朝忠、検使として高橋郷左衛門が派遣された。
天正十八年(1590年)三月に豊臣側の水軍脇坂安治、長宗我部元親、安国寺恵瓊(えけい)が来襲し、康英は手兵600余で約50日にわたって籠城した後に開城した。城将康英は河津三養院に身を寄せた。
北条氏の滅亡後は徳川家康の家臣・戸田忠次が城主となり下田5千石を治めた。忠次の子・尊次は慶長六年(1601年)に三河国の田原城へ転封となり、以後は江戸幕府の直轄領として下田町奉行の支配となり、廃城となった。
明治三十四年(1901年)城址は下田公園となり、樹木、紫陽花が植えられ、市民憩いの場となっている。