新府城 (しんぷじょう) (国の史跡)
所在地 山梨県韮崎市中田町中條 2013.9.1 2018.4.8
新府城 (しんぷじょう) (国の史跡)
所在地 山梨県韮崎市中田町中條 2013.9.1 2018.4.8
登城ルート
丸馬出
丸馬出の空堀
西三の丸・土塁
二の丸・土塁
本丸跡・藤武神社
本丸・勝頼墓・長篠役将士墓
空堀・東出構
空堀・西出構
新府城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【感想】 釜無川と塩川に挟まれた台地上の比高40mほどの丘陵に武田勝頼により築かれ城である。
北側と東側に堀跡が残り、西側は断崖となり、南側に桝形虎口、丸馬出がよく残っている。
北側の堀付近には桃の花が咲き誇り、まさに桃源郷そのもので、観光客も多く見られた。
【案内】 JR中央本線「新府駅」の西約600m、県道17号線(七里岩ライン)の西側の比高約40mの山頂に新府城跡がある。
藤武神社の石段の北側約200mに駐車場が用意されている[マップコード167 561 135*18](地図)。県道東の帯状の低地は堀跡である。
「新府城跡」の石碑と説明板が藤武神社の石段脇に建てられている。その南約35mに遊歩道があり、少し登ると右手の高台に東三の丸、その先に桝形虎口があり土塁がよく残っている。
その南、大手にあたる丸馬出の土塁、空堀が残っている。戻って北に行くと、東三の丸、西三の丸、馬出、二の丸があり、共に土塁がよく残っている。
二の丸の東に一段高く本丸があり、北側に藤武神社本殿が建てられている。西に武田勝頼の墓、その左右に「長篠役陣歿将士之墓」十四基がある。
城跡北の低地は、幅40mに及ぶ堀跡で、そこに突き出た「東出構」、「西出構」があり、説明板が建てられている(地図)。堀跡は県道の東側にまで伸びている。
昭和四十八年(1973年)7月21日、国の史跡に指定された。
【歴史】 武田信玄が天正元年に病没した後、武田氏を継承し、天正三年(1575年)の長篠の戦いに敗れた武田勝頼は領国支配を引き締め強化しようと、天正九年(1581年)真田昌幸に命じ新府城の築城が開始され、年末には躑躅ヶ崎館から移住した。
天正十年(1582年)信濃の木曽義昌の謀反を鎮圧しようと諏訪へ出兵するが、織田・徳川連合軍に阻まれ帰国した。
織田軍はさらに進軍し、同年三月勝頼は小山田信茂の岩殿城へ移るため新府城に火をかけ、岩殿城に向うが途中笹子峠で小山田信茂の謀反に遭い、天目山へ追い詰められ自害、武田氏は滅亡した。
同じ六月に京都本能寺で信長が死去すると、武田遺領を巡って徳川氏と後北条氏の争奪戦(天正壬午(じんご)の乱)が起こり、家康の戦略上重要な拠点となるが、天正十八年(1590年)後北条氏が亡びると廃城となった。