古宮城 (ふるみやじょう)
所在地 愛知県新城市作手清岳宮山31 2014.12.8 2023.1.15
古宮城 (ふるみやじょう)
所在地 愛知県新城市作手清岳宮山31 2014.12.8 2023.1.15
案内図
主郭南側の横堀
主郭桝形虎口
主郭下段・仕切土塁
主郭上段・西側土塁
中間の空堀
西曲輪下段・仕切土塁
西曲輪上段・土塁(北西から見る)
西曲輪西側の横堀
西曲輪北側の横堀
古宮城 東城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高25m】
【感想】 古宮城は新城市作手清岳宮山の低丘陵に築かれ、空堀を挟んで東西2つの郭から成っている。
東の主郭は2段になり中間に仕切土塁が見られ、西曲輪も同様な構造で、西から北側に深い横堀がよく残っている。東空堀(竪堀)を挟んで、その西に西城の曲輪がある。西城の東側土塁の左右に2ヶ所の虎口があるのが特徴である。西城周辺にも横堀、土塁がよく残っている。
【案内】 国道301号線より東に県道436号線を150mほど行った、白鳥神社(表記番地)の鳥居の横に新城市教育委員会の「古宮城址」説明板が建てられている[マップコード681 186 201*15]。
神社右手より登ると、東城の主曲輪と西の曲輪が並んでいる。周囲に横堀が残っており、部分的に2重になっている。
【歴史】 古宮城自体が同時代の史料に登場しないため、築城から廃城に到る過程については明らかではないが、元文五年(1740年)編『三河国二葉松』によると元亀二年(1571年)に武田信玄が馬場信春に命じて築城させたとある。
前述のとおり古宮城の地は街道上の要衝に立地し、当時武田氏が抗争していた三河の徳川家康攻略の拠点として築城されたと考えられている。
『二葉松』によると小幡又兵衛(昌盛?)、甘利左右衛門(信康?)、大熊備前守(朝秀?)が在城したという。
『中津藩史』によると、この頃、作手を領有していた奥平貞昌は武田氏から離反して、徳川家康に再度属する記述が見られる。
天正元年(1573年)八月、武田軍に攻められ亀山城を放棄した奥平貞能・貞昌勢を、古宮城の武田軍が追撃した(石堂ヶ根・田原坂の戦い)。
逃亡奥平軍の殿(しんがり)に肉薄したところ、奥平の別働隊が手薄の古宮城を襲うと見せかけた陽動放火を展開し、古宮城の危機と判断した武田軍は追撃を断念したという。
廃城の時期についても明らかではないが、天正三年(1575年)五月の長篠の戦いで武田氏の勢力が大きく後退した時期の可能性が高い。