曲渕氏屋敷 (まがりぶちしやしき)
最寄地 山梨県北杜市白州町花水1374 2019.8.10
曲渕氏屋敷 (まがりぶちしやしき)
最寄地 山梨県北杜市白州町花水1374 2019.8.10
北東の沢
北側の標柱・カヤと大藤の案内板
曲渕氏屋敷跡の標柱
若宮八幡宮
曲渕氏墓所
曲渕氏屋敷跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 釜無川左岸の台地にあり、遺構は無いが、若宮八幡宮が祀られ、天然記念物のカヤの群落がある。境内は狭く、南側の民家一帯も屋敷跡と思われる。
【案内】 県道606号線の清泰寺(表記番地)と道路を挟んだ南西向かいに、「曲渕氏屋敷跡」の標柱が建てられ、曲渕氏の屋敷神と云われる若宮八幡宮が祀られている[マップコード167 821 379*77](地図)。
清泰寺は、中興開基の曲渕氏の菩提寺で、一族の墓がある。
【歴史】 曲渕吉景(まがりぶち よしかげ)は、永正十五年(1518年)に生まれ長じて武田信玄の傅役・板垣信方の被官に取り立てられ、草履取りから出世して板垣家臣団の筆頭格で、足軽大将になった。
板垣信方が信玄により甲府長禅寺において処刑せられたのち、山形昌景に仕えた。武田信玄の信濃侵攻の際、山形昌景に従って軍功を挙げている。
弘治三年(1557年)七月五日、山形昌景が信濃平倉城を攻めた際、曲渕庄左衛門吉景は城主・飯森盛春を討ち取っている。
天正三年(1575年)、長篠の戦いに参陣した。武勇を以て知られ、武田家滅亡の後は、武川衆の一員として徳川家康に仕え500石を給せられた。
曲渕家は、幕府の旗本として存続し、大坂西町奉行や江戸北町奉行などを務めた曲渕景漸(まがりぶち かげつぐ)も子孫の一人である。