与板城 (よいたじょう) (直江城) (県の史跡)
最寄地 新潟県長岡市与板町与板乙933−1 2014.7.17
与板城 (よいたじょう) (直江城) (県の史跡)
最寄地 新潟県長岡市与板町与板乙933−1 2014.7.17
登城ルート
実城登り口
腰郭
実城本丸・神社・土塁・城址碑
堀切
二の丸
三の丸
堀切
大空堀
千人溜り
与板城 実城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 法立寺(表記番地)横の八坂神社鳥居の階段[マップコード58 396 807*75](地図)より比高約80m歩行距離約460mの頂上本丸へ登る。
途中、竪堀やお船の方が用いた清水(おせん清水)がある。門跡を経て登ると腰曲輪があり、約5mの上段に本丸がある。
実城には、土塁、「城の一本杉」が残り、神社や「史跡與板城趾」、「直江山城守舊城地本丸」の石碑が建てられている。
南西方向に行くと、一列に二の丸、三の丸が並び、夫々堀切で区分されている。その南西に巾4~9mの大空堀があり、登ると「千人溜り」がある。大空堀の南に、馬場・弓場・射撃場がある。
昭和二十九年(1954年)2月10日、新潟県の史跡に指定された。
【歴史】 長尾家家臣である直江家の居城で、元は2㎞ほど離れた本与板城を居城としていたが、天正年間(年数は不明)の直江景綱の時代に築城、移転した。なお、この時に本与板城が廃城になったのか、以降も暫く使用されたかは不明である。
天正六年(1578年)景綱の養嗣子、信綱の代に勃発した御館の乱に於いて直江家は景勝派に属し、同じく景勝派であった黒滝城の山岸光祐や赤田城の斉藤朝信等と共に景虎派の本庄秀綱の栃尾城に対しての備えや攻撃を行った。
また、この乱の後に城主信綱は恩賞に不満を持った毛利秀広によって春日山城にて殺害された。
直江家には嫡子がいなかったために断絶となるところ、景勝が名門直江家の断絶を惜しみ、樋口兼続を未亡人のお船の方と結婚させることで家名が残ることとなり、引き続き直江家の居城として使用された。
慶長三年(1598年)に上杉家が会津に転封となったため、与板城は廃城となった。