吉崎御坊 (よしざきごぼう)
最寄地 福井県あわら市吉崎8−34 2017.8.4
吉崎御坊 (よしざきごぼう)
最寄地 福井県あわら市吉崎8−34 2017.8.4
北潟湖より西側遠景
入口
公園
蓮如上人銅像
本坊跡の石碑
腰掛石
吉崎御坊跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 石川県との県境に近く、北・西・南の三方を北潟湖に囲まれた標高32.5mの丘にある天然の要害で、面積約2万㎡の広さがある。
公園として整備され、遺構は少ないが、桜など植樹され北に北潟湖や鹿島などの絶景が望める。
【案内】 吉崎公民館(表記番地)南より西へ登ってゆくと、駐車場が用意されている[120 120 049*81]。
公園の中央に蓮如上人銅像が建立され、本堂跡、腰掛け石が残っている。
昭和五十年(1975年)2月13日、国の史跡に指定された。現在は東、西本願寺の共有の地となっている。
【歴史】 文明三年(1471年)七月下旬、比叡山延暦寺などの迫害を受けて京から逃れた本願寺第8世法主蓮如が、本願寺系浄土真宗の北陸における布教拠点として北潟湖畔の吉崎山に坊を建立した。
吉崎は興福寺大乗院の門跡であった経覚の所領であったが、経覚の母が本願寺の出身で、蓮如も若い頃に経覚の元で修行していた事、また偶々吉崎の代官の地位にあったのが当時の本願寺にとっては数少ない末寺であった和田本覚寺の住持蓮光であったという関係もあって、経覚が蓮如のために吉崎を譲ったのだといわれている。
この地で蓮如は教義を民衆にわかりやすく説き、時には御文(「御文章(ごぶんしょう)」)を用いたり、「南無阿弥陀仏」の六字名号を下付したため、御坊には北陸はもとより奥羽からも多くの門徒が集った。また、御坊周辺の吉崎一帯は坊舎や門徒の宿坊などが立ち並び寺内町を形成した。
その後、文明六年(1474年)三月二十八日、火災で焼失するも、その後再建された。
文明七年(1475年)八月二十一日、戦国の動乱で再び焼失、蓮如は吉崎を退去した。
永正三年(1506年)朝倉宗滴が、加賀より越前に侵攻した加賀一向一揆勢を九頭竜川の戦いで破った後、吉崎の坊舎を破却し、廃坊となった。