堂洞城 (どうほらじょう) (県の史跡)
所在地 岐阜県加茂郡富加町夕田 2014.11.24
堂洞城 (どうほらじょう) (県の史跡)
所在地 岐阜県加茂郡富加町夕田 2014.11.24
登城ルート(緑線は車道)
登り口(ゲート前を左へ)
ゴルフ場通路上の橋
長尾丸曲輪
堀切
主郭虎口
主郭跡・供養塔・三角点
主郭跡・供養塔・説明板
堂洞城 主郭跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高15m】
【案内・歴史】 「伊豆神社」(美濃加茂市蜂屋町中蜂屋1090)の鳥居前の道を北東に行くと、貯水池があり、その250m北のポンプ場の横を更に250m程道なりに行くと峠となり、配水タンクやゴルフ場ゲートのフェンスがある[マップコード70 525 467*34] 。ゲートの10m西に標識は無いが入口がある(地図) 。
猪用電気柵、ゴルフ場の橋を越え、途中に広い長尾丸曲輪があり、約300m尾根を行くと、堀切、土橋の先に標高191.4m(比高は15m程度)の山頂に一辺約20mの主郭跡がある。
「南無阿弥陀仏」と刻まれた供養塔があり、新しい四百五十回忌の塔婆(平成26年8月28日)が立てられている。四等三角点、説明看板が立てられている。二の丸は配水タンク付近とされ、大手門は西へ400mほど下った地点である。周囲一帯は「クレセントバレーカントリークラブ美濃加茂」の敷地となっている。
【歴史】 築城者・築城年は不明である。蜂屋頼隆が織田信長に内応してから、天文・永禄の頃には岸佐渡守信周(のぶちか)が城主であった。
信長の中濃攻略阻止のために築かれた城で、加治田城主・佐藤忠能、関城主・長井道利、堂洞城主・岸信周の中濃三城で盟約を結んだ。
美濃攻略に向けて犬山城を落した信長は永禄八年(1565年)八月木曽川を渡り猿啄城(多治見修理)、鵜沼城(大沢基康)を落し堂洞城に迫った。
信長は高畑の恵日山に本陣を置いて関城からの岸方へ援軍が来るのを防いだ。信長の投降勧告を断った岸勘解由信周に対し八月二八日正午堂洞城へ攻撃を開始した。
永禄八年(1565年)八月二十八日午刻(正午)、織田方の丹羽長秀らが攻め、そして織田方に寝返った佐藤氏軍が北の加治田から攻め入った。堂洞城の将士は奮戦するも敗れ、酉刻(午後六時)岸信周は一族もろとも城を枕に自刃した。落城後そのまま廃城となった。
天正十年(1582年)六月本能寺の変後、混乱に乗じて斎藤利堯と森長可による加治田・兼山合戦の際、堂洞城跡は森長可の加治田攻城戦の本陣として使用された。
【逸話】 堂洞合戦において18度のかけ合いをし、一足も退かずに戦った。信周の妻も長刀を振りまわし、勇戦で坂額御前を思わせる働きをした。
最期の時に「信房はどうしているか」と傍らの妻に聞くと「北の方は打ち破られて信房は討死と思われます」と答え、信周が思わず涙を流すと妻は声をかけてはげまし「武士が戦場で命をおとすは常の習い。さあ私たちも討死を急ぎましょう」といって辞世の歌を「先立つも暫し残るも同じ道、此の世の隙をあけぼのの空」と詠み、信周は「待て暫し敵の波風きり払い倶にいたらん極楽の岸」と詠んで、夫婦で刺し違えた。