大村城 (おおむらじょう)
所在地 富山県富山市海岸通57 2014.10.5 2014.10.23
大村城 (おおむらじょう)
所在地 富山県富山市海岸通57 2014.10.5 2014.10.23
瑞円寺・説明板
説明板
南西側・堀
瑞円寺東側門・堀・土塁
堀・土塁
精霊塚・石碑・説明板
精霊塚説明板
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 瑞円寺(表記番地)とその私邸の敷地となっており、東に門があり、石垣の土塁、堀が残っている[マップコード144 601 425*60](地図)。
北側道路に面して案内板と、「大村城主轡田豊後守雅正之旧跡地・瑞圓禅寺」の石碑が建てられている。境内の西から南にかけて幅広の堀跡がある。
日本海に程近い神通川の河口の東側に築かれた平城である。城跡は約1万5百㎡と広大で、今後の調査によってはまだ広がる可能性が有る。城跡の北を浜街道(県道1号線・旧北国街道)が通り、また水運、海運も栄えた要衝であった。
また出城としては東400mに日方江城が在る。寺には轡田氏の位牌と雅正が平素信仰していたという阿弥陀仏が残されている。
県道1号線「那智町」交差点の東に、天正六年の落城時の轡田豊後守をはじめとする戦死者を葬ったとされる「精霊塚」がある[144 630 105*38] (地図)。
【歴史】 永正年間(1504~21年)に越中国国人の轡田氏によって築かれたという。
越中国新庄城に拠っていた三輪氏が上杉勢に滅ぼされた後、新庄城をもその管轄下に置いた。
ちなみにこの頃史料に散見出来る轡田氏として轡田豊後守、轡田備後守(新庄城の城主)、轡田肥後守(上杉謙信の配下として能登攻めに加わった)がいる。
天正六年(1578年)、上杉方の松倉城主河田長親に攻められて落城した。城主轡田豊後守雅正は城を枕に討死した。雅正を含む轡田方の戦死者は瑞円寺北方にある「精霊塚」(海岸通264)に葬られた。
また雅正の長男が生き延びて剃髪し祐専と名乗り、永禄十一年(1568年)に浄福寺(富山市婦中町下轡田102)を開いたというが、時期的に合わない。浄福寺にある陣鐘は轡田氏が陣中で使っていたものであると云われる。