平林城 (ひらばやしじょう) (加護山城) (国の史跡)
所在地 新潟県村上市平林平林城跡 2014.7.21
平林城 (ひらばやしじょう) (加護山城) (国の史跡)
所在地 新潟県村上市平林平林城跡 2014.7.21
登城ルート(緑線は車道)
岩館曲輪跡
岩館土塁
中曲輪
本丸・殿堀
虎口・土塁
城戸門跡
長辺田の馬洗場
要害山帯曲輪
要害山主郭・城址標柱
平林城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高200m】
【案内・感想】 市立平林小学校(村上市平林122)南の道路を東に約400m、左折し約250m、左折約250m行くと専用駐車場が用意されている(地図)[マップコード250 191 256*32]。
その南東、麓の居館跡は三曲輪からなり東西300m・南北200mの広さを有し、西より三の丸(岩館曲輪)、二の丸(中曲輪)と並び二の丸の南東に登山口がある。二の丸の北に本丸がある。岩館曲輪東の土塁は高く、よく保存されている。また、本丸虎口に「殿堀」と呼ばれる空堀の両側に土塁がよく保存されている。
中曲輪の東に土塁・空堀があり、登山口より東の歩行距離約1800m、標高287m比高約200mの要害山を目指す。途中、城戸門跡があり、「長辺田」の広い馬洗い場がある。また罪人処刑の場であった「首切り清水」の広い緩斜面がある。
「七曲坂」と呼ばれる坂を上ると、堀切で区切られた曲輪が三つ並び、南を帯曲輪でつなぎ、東に主郭がある。主郭に「平林城要害山主曲輪」の標柱が立てられている。頂上から南に荒川に沿った集落などの絶景が見られる。
昭和五十三年(1978年)9月18日、国の史跡に指定された。
【歴史】 建久年間(1190~99年)以来、豪族平林内蔵助代々の居城であったが、南北朝時代には新田義貞の南朝方に付いた。
鎌倉時代の嘉禄二年(1226年)関東秩父氏の一族で越後国小泉荘色部荘の地頭として入部していた色部氏は北朝方として平林氏を攻め滅ぼし、居城にした。以降、代々色部氏の本拠地となった。
永正の乱で、城主・色部昌長は越後守護上杉房能(ふさよし)に従い、守護代長尾為景と対立した。永正五年(1508年)五月に為景方の鳥坂城主の中条藤資(ふじすけ)や築地忠基らに攻められ持ちこたえたが、間者による放火で落城、降伏して長尾氏に帰属した。
天文八年(1539年)、色部勝長の時には守護上杉定実の養子縁組問題から伊達稙宗(たねむね)・中条藤資に攻められるが、伊達氏の内紛で撤退した。その後勝長は上杉謙信の重臣として活躍した。
色部長真の代の慶長三年(1598年)、上杉景勝の会津移封により米沢金山城へ移り、廃城となった。