大宮城 (おおみやじょう) (富士城)
所在地 静岡県富士宮市元城町1−1 2014.6.13
大宮城 (おおみやじょう) (富士城)
所在地 静岡県富士宮市元城町1−1 2014.6.13
市立大宮保育園
陣屋長屋門
陣屋長屋門 の由来
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 市立大宮保育園(表記番地)裏から大宮小学校グランドにかけて「主郭」があり、溝で隔てて西の大宮小学校校舎敷地が「二の郭」であった[マップコード72 493 628*68] 。
二の郭の南、神田蔵屋敷稲荷神社から長屋門にかけて「蔵屋敷郭」があった。
一方通行の 西約100mに「長屋門歴史の館」(地図:大宮町6)として陣屋長屋門が移築されている。
【発掘調査】 城域の発掘調査では、建物跡・溝跡・土塁跡・堀跡・井戸跡などの遺構が検出され、城の構造としては、それぞれを溝で仕切った郭があり、主郭の西側に「二の郭」を、その前面に蔵屋敷を配置し、それらの周りを土塁と堀で囲んだ連郭式の構造をしたものと評価される。
出土品は鎌倉時代から戦国時代にかけての遺物が数多く発見され、中国からの輸入品である青磁や白磁などの貿易陶磁も確認されている。
【歴史】 大宮城の築城は、中世に富士郡の国衆である富士氏によって行われたとされるが、詳しい築城年は不明である。
今川氏により富士氏が大宮城の城代に任ぜられていることから、戦国時代には今川氏が管理する城であったと考えられている。
永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いによる今川義元の敗死を契機に今川領国は動揺し、それまで同盟関係にあった甲斐武田氏との関係も険悪化した。
永禄十一年(1568年)に甲駿関係は手切となり、武田信玄による今川領国への侵攻が行われた(駿河侵攻)。また今川氏の没落により、富士氏は後北条氏の庇護を受ける事となった。
武田氏による大宮城への攻撃は三度行われ、大宮城城主である富士信忠らが大宮城に拠り武田勢に抵抗した。一度目は永禄十一年(1568年)十二月、二度目は永禄十二年(1569年)二月、三度目は同年六月二十五日である。
一度目と二度目の攻防戦では大宮城は落とされず、二度目は近接する河内領主の穴山信君や武田方に帰属した駿河国衆葛山氏元の連合軍を撃退する事にも成功するなど、対抗勢力としての役割を果たした(『静岡県史』資料編8 - 358号)。また、同じ富士郡の在地勢力である井出氏なども籠城戦に参加したという。
三度目での攻防戦では、武田信玄の率いる本隊の攻撃に遭った。六月に信玄は大軍を率いて御殿場より駿河に入り、三島・韮山を進んだ後に進路を西にとり大宮へ向かった。
この際の戦について北条氏照の書状には「敵二千人手負死人仕出候」とあり富士氏は善戦したものの、信玄本隊による攻撃に苦戦を強いられた。
また北条氏政はこの時援軍を送ることができず、富士氏に三通の文書を送り退城を勧めた。また同時に武田氏側との交渉を行い、穴山信君と開城の交渉が進められ、七月三日には開城した。しかし富士氏は開城をしたものの、直ぐには武田氏に降らなかったという。
その後富士信忠が甲斐に赴き、武田氏に帰属することが明確となった。その後の富士郡に対しては譜代家老原昌胤や市川昌房が取次を務めており、昌胤は大宮城代であったと考えられている。
武田家滅亡後は徳川家康が駿河を支配したが、天正十年(1582年)に建物が焼失したという。
安政四年(1857年、)江戸幕府の御用人であった本郷泰固は、武蔵・上総・遠江の外、川成島(現富士宮市)を所領地とする大名となり、南南東約10㎞の川成島天王社前(現在の東海道新幹線新富士駅南口付近)に陣屋を築いた。
明治以後、和田家に引き継がれ、昭和十四~十五年にかけて門以外の大部分は取り壊され、長屋門は遠藤家の料亭「高しま屋」の門として移築された。現在富士宮市の所有となっている。