福与城 (ふくよじょう) (箕輪城) (県の史跡)
所在地 長野県上伊那郡箕輪町福与 2014.11.6
福与城 (ふくよじょう) (箕輪城) (県の史跡)
所在地 長野県上伊那郡箕輪町福与 2014.11.6
説明板
南城・城跡碑・案内板
南城
主郭南城間の空堀・土橋
主郭南城間の空堀・土橋
腰郭・主郭切岸
主郭・案内板
二の郭
空堀・北城
福与城 本城主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道19号線「南小学校前」交差点東の「箕輪町南小学校」(箕輪町三日町1513)の前の「ふるさと農道」を約600m行き、西に約250m地点より北に100m行った所に福与城跡駐車場[マップコード171 495 851*17](地図)がある。
城跡は東西約330m南北約440mで、空堀によって北城(地図)・本城(東に主郭、西に二の丸)・南城(駐車場北の乳母屋敷、東の権次郭、宋仙屋敷、赤穂屋敷など)に区分されている。北城、二の郭は主郭より一段低くなっており、南城は西より東に屋敷跡が雛段状に並んでいる。
主郭の東は鎌倉沢の谷となり、他の三方を囲む空堀は4m以上と深い。主郭は二段になり、「福与城跡」碑や案内板が立てられ、「忠魂碑」がある。東端が一段高くなっている。二の郭は南北二段になっている。
昭和四十四年(1969年)7月3日、長野県史跡に指定された。
【歴史】 築城は鎌倉時代と伝えられるが、築城者は詳らかでない。戦国の天文年代(1532~55年)藤沢頼親の居城であった。
天文十四年(1545年)武田信玄の伊那攻略に遭い、50日間の籠城戦の末、六月頼親は舎弟権次郎を人質に出して和議の後、城は放火破壊され、頼親は流浪の身となった。
また天文十八年(1549年)には、武田氏によって城の鍬立が行われた『高白斎記』。
天正十年(1582年)織田信長の甲州征伐で武田氏が滅亡すると、頼親はこの城を奪還したが、高遠城を奪還した保科正直に攻められ落城した。