海ノ口城 (うんの/うみのくちじょう) (鳥井城)
最寄地 長野県南佐久郡南牧村海ノ口348 2014.11.6
海ノ口城 (うんの/うみのくちじょう) (鳥井城)
最寄地 長野県南佐久郡南牧村海ノ口348 2014.11.6
登城ルート(緑線は車道)
林道入口・標識
駐車場・右奥が城山
尾根鞍部を右へ
西側城塁
主郭・城跡碑
城跡碑・説明板
主郭・四阿
二、三の曲輪
海ノ口城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高220m】
【案内・感想】 国道141号線より東に行った、表記番地の西に林道入口があり[マップコード 359 404 217*2 ](地図)、小さな案内標識が立てられている。
林道を500mほど行き(途中から路面は雨水に削られ荒れている)終点に駐車スペースがある。
そこより北に一直線に比高120m登り、尾根を東に900m登ると城山西に位置する標高1265m比高約220mの頂上に主郭があり、自然石の前に「海ノ口城跡」の石碑や看板、四阿が建てられている。
主郭背後はきわめて深い断崖となり、主郭の南に二の曲輪、三の曲輪がある。北に浅間山の連山、西に八ヶ岳連峰の絶景が望める。
【歴史】 佐久市平賀の平賀城主平賀源心(成頼)の出城であった。
永正、大永年間の頃から甲斐の武田氏としばしば兵火を交えた。文安、宝徳の頃からこの城に拠っていた。
天文五年(1536年)暮れ、甲斐国守護武田信虎は七、八千の兵を率いて佐久方面に出陣した。佐久平賀城主平賀源心(玄信)入道成頼ら三千の立て籠もる海ノ口城を攻めた。36日間の包囲にもかかわらず海ノ口城は陥ちず、冬の到来とともに信虎は兵を引き揚げた。
この際、信虎の嫡男、晴信(のちの信玄)は初陣で、しんがりを務めていたが、信虎の許を得て、兵三百を率いて途中頼引き返し海ノ口城に奇襲を掛けた。
一方、平賀源心は武田方の帰陣を知り城の守りを解いて兵を年取りに家に帰して寛いでいた。そこに晴信の奇襲に遭い剛胆七十人力というさすがの源心も虚を突かれあえなく戦死し、海ノ口城は落城した。
晴信はこのとき十六歳で初陣の手柄を立てた。十二月二十八日のことであった(『甲陽軍鑑』)。
天文十二年(1543年)、佐久大井氏の攻略、天文十五年(1546年)の内山城の攻略、天文十七年(1548年)、上田原の戦い敗北後の佐久衆叛乱鎮圧、天文十九年(1550年)、砥石崩れ後の村上義清の佐久再侵攻など度々武田晴信の陣所、兵站基地であった。