松代城 (まつしろじょう) (海津城・貝津城) (国の史跡・日本100名城26)
所在地 長野県長野市松代町松代 2013.7.7 2015.9.6
松代城 (まつしろじょう) (海津城・貝津城) (国の史跡・日本100名城26)
所在地 長野県長野市松代町松代 2013.7.7 2015.9.6
登城ルート
北東外堀
東側内堀・橋
城址碑・北不明門(櫓門)
櫓台・北不明門
二の丸土塁
内堀・本丸石垣
南側石垣・太鼓門
太鼓門
櫓台
松代城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 上信越自動車道の長野インター東の国道403号線「長野インター南」交差点より約570m南西に行き、左折して間もなく左手に駐車場が用意されている[マップコード177 833 802*35](地図)。
トイレ横より東に200mほど行くと、北側入口がある(地図)。入口の東に外堀があり、土塁を通って入ると、搦手の北不明門(きたあかずのもん)の表門(桝形門)と櫓門が復元(平成十六年)されている。
9時~17時の間無料開放されており、土塁で囲まれた二の丸曲輪の中に巾10mの内堀と石垣で囲まれた本丸がある。南大手の橋が架けられ表門・太鼓門・塀が復元されている。東側の木橋も復元されている。
四隅に幕末まで二重櫓があった櫓台があり、石垣もよく保存されている。南側入口の南の線路踏切付近が三の丸で、甲州流築城術の特長である丸馬出及び三日月堀があったが、現在は消滅している。
東側内堀の木橋も復元され、その東に丸馬出しが在った。三の丸の西に花の丸があった。
また、松代城の南に真田公園があり「新御殿跡(真田邸)」がありその南の道路に沿って「旧樋口家住宅」「旧白井家表門」等が移築され保存され、「松代藩文武学校」が現存している。
昭和五十六年(1981年)4月11日、 本丸を中心とした城址の一部と新御殿が国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(26番)に選定された。
【歴史】 永禄二年(1559年)清野氏の館を接収し、武田晴信の命により山本勘助が築城を開始し翌年完成した。
海津城は東条城(尼飾城)と共に上杉氏への最前線に位置し永禄四年(1561年)九月に上杉謙信が川中島へ侵攻すると、城代の春日虎綱(高坂昌信)は海津城に立て籠もり信玄本体の到着を待って、九月十日には八幡原において両軍の決戦が行われたという(第四次川中島の戦い)。
武田氏滅亡後に、織田氏家臣の森長可の居城になる。長可は武田遺臣の子息や人質を海津城に住まわせたが、本能寺の変が起こると長可は信濃を放棄して退却することを決断し、人質を楯に美濃へ退却し、海津城は放棄された。
以後は空白地帯となり、信濃へ侵入した上杉氏の支配となるが、慶長三年(1598年)上杉景勝が会津に転封された後は、豊臣秀吉の蔵入地となり、城主に田丸直昌が任じられた。
慶長五年直昌の後、森忠政が美濃国金山城より入封した。この時海津城から「侍城」へ改名され、二の丸、三の丸を整備し土塁を石垣に築きなおしたと考えられている。
慶長八年(1603年)森忠政が美作国へ加増転封され、松平忠輝が入封され、忠輝が加増され慶長十九年(1614年)高田藩主になるが、松代も引き続き領有したため家老の花井吉成が城代を務め、「松城」と改名され城下や領内の整備に尽力した。そののち松平忠昌、酒井忠勝と続いた。
元和八年(1622年)真田信之が入城した。以後松代藩10万石の藩庁として明治維新まで真田氏の居城であった。
正徳元年(1711年)幕府の命により「松代城」と改名された。享保二年(1717年)火災により本丸、二の丸、三の丸を焼失し、翌年幕府より借財を受け再建された。明和七年(1770年)花の丸に御殿を移した。
嘉永六年(1853年)火災により「花の丸御殿」を焼失し、その後再建された。元治元年(1864年)城外に新御殿(真田邸)建てられた。
明治五年(1872年)廃城令で城内は破却され払い下げられ、畑となった。翌年「花の丸御殿」が再び焼失した(現在石碑が建てられている)。
明治三十七年(1904年) 藩士に分け与えられていた土地を真田幸正が買い取り、本丸跡地を遊園地として解放した。
昭和二十六年(1951年) 真田幸治により本丸が寄付され公用地となり、その後史跡に指定され、復元工事を経て現在に至っている。