敦賀城 (つるがじょう)
所在地 福井県敦賀市結城町8‐6 2014.6.15
敦賀城 (つるがじょう)
所在地 福井県敦賀市結城町8‐6 2014.6.15
敦賀西小学校・城跡由来碑
城跡由来碑
敦賀城中門
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 遺構は少ないが、敦賀市立敦賀西小学校(表記番地)の南東角に城跡や奉行所跡、県庁跡の由来碑が建てられている[マップコード192 848 070*33] (地図)。
また来迎寺(松島町2丁目5−32)の東の表門に敦賀城中門が移築されている。
【歴史】 天正三年 (1575年)に織田信長により越前は平定され、天正十年 (1582年)に本能寺の変によって信長が明智光秀に討たれると、羽柴秀吉が台頭し、天正十一年(1583年)その家臣だった蜂屋頼隆が5万石で敦賀の地に入り敦賀城を築城した。
しか、し頼隆は九州征伐中に病死したため、天正十七年 (1589年)には秀吉家臣団でも知将の呼び声高い大谷吉継が5万7千石で敦賀城に入城した。
吉継は城を整備拡充し町も整え、三重天守を上げ、現在の結城町と三島町一丁目にまたがる城域であった。
慶長五年(1600年)大谷吉継は関ヶ原の戦いで西軍に属し奮戦したが敗北、自刃し、戦後、所領は没収された。
その後城は吉継の家臣蜂屋将監によって東軍に引き渡され、結城秀康(結城町の由来)によって代官が派遣されていたが、一国一城令により、元和二年 (1616年)に敦賀城は廃城にされた。
寛永元年(1624年)小浜藩主の京極忠高が敦賀郡を加増され、寛永十一年(1634年)には酒井忠勝が小浜藩主となり、敦賀の統治に当たった。南北奉行所の内、北町奉行所が置かれた。
明治四年(1871年)敦賀県が発足し旧陣屋に県庁が置かれた。同九年八月敦賀県が廃止され、はじめ滋賀県に属し、後福井県となった。
明治四十二年(1909年)敦賀尋常高等小学校が神楽町から新築移転し現在の敦賀西小学校に引き継がれている。