木尾嶽城 (きおだけじょう) (木尾城・城ヶ根城)
最寄地 石川県羽咋郡志賀町東小室リ88 2018.6.15
木尾嶽城 (きおだけじょう) (木尾城・城ヶ根城)
最寄地 石川県羽咋郡志賀町東小室リ88 2018.6.15
登城ルート(緑線は車道)
県道の城址碑
林道入口・細田橋
殿様池
3重堀切・土橋
主郭切岸・階段
主郭
櫓台
西側帯郭
木尾嶽城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 志賀町貝田の富来川と広池川に挟まれた標高127mの尾根先端部に築かれた山城である。
草ではっきりしないが3重堀切が残っている。主郭は草が刈られよく整備されていた。櫓台から富木城や富来町の市街、遠く日本海まで望める。
【案内】 県道23号線と県道51号線の交差する表記番地南の橋の横に城址碑が建てられている[マップコード471 225 158*27](地図)。
県道23号線を東へ約1km行き広池川の細田橋先から林道が通っており、約600m登って分岐を左折する [マップコード471 226 501*76](地図)。
西へ約350m行くと終点に説明板が建てられ駐車できる。50mほど戻って標柱を北に下るとすぐ殿様池がある。
駐車場より西へ約400mやや下ってゆくと草に覆われているが3重堀切がある。その西に切岸があり櫓台を備えた主郭がある。
志賀町の文化財に指定されている。
【歴史】 南北朝時代に富来俊行によって築かれた南朝方の城である。貞和二年(1346年)五月六日、北朝との戦いで落城した。
その200年後、天正四年(1561年)上杉謙信勢が七尾城を幾度となく攻めるが落城せず、長期戦に備え能登一円の廃城を修復した。木尾嶽城には藍浦長門が城将となった。
しかし、関東から北条氏が越後に侵攻するとの報に接し、謙信は急遽越後に引き上げた。
畠山氏も謙信の行動に気付き能登の失地回復に動き、木尾嶽城には誉田弾正が攻め込んだ。藍浦長門は防戦するも耐え切れず自刃し落城した。また、足軽大将寺崎掃部政国は門前町の黒島まで敗走したが討ち取られたという。
一旦、七尾城主畠山氏が能登を平定したが、再度上杉勢が大軍を率いて能登に侵攻、天正五年(1577年)七尾城も攻略され遂に能登は上杉方に平定された。