津川城 (つがわじょう) (狐戻城・麒麟山城) (県の史跡)
最寄地 新潟県東蒲原郡阿賀町鹿瀬9515 2014.7.22
津川城 (つがわじょう) (狐戻城・麒麟山城) (県の史跡)
最寄地 新潟県東蒲原郡阿賀町鹿瀬9515 2014.7.22
登城ルート
門跡
侍屋敷跡
空堀跡(竪堀)
二の曲輪
由来板
本丸・麒麟山 城址碑
狐戻城碑・本丸
本丸東堀切
津川城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【案内・感想】 阿賀野川と常浪川が合流する東に位置し、標高191mの麒麟山の西側尾根上にあり、「麒麟山公園」となっている。国道459号線トンネル南の専用駐車場が用意されている(表記番地)[マップコード463 355 476*62]。
そこより西に「鶴ヶ沼」と呼ばれる小さな池を過ぎ、徒歩で常浪川に沿って行く。門跡、搦手口土塁跡、侍屋敷跡が残っている。
石段を登ってゆくと空堀があり、二の曲輪跡があり最高所(比高約70m)に本丸跡がある。
本丸には「麒麟山城阯碑」があり、西端に展望台が設けられ、阿賀野川に沿った集落や国道49号線鉄橋(麒麟橋)が望める。本丸東端に堀切がある。
昭和四十年(1965年)4月7日、新潟県の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代の建長四年(1252年)に会津佐原氏の一族・金上(藤原)盛弘が越後進出の拠点とするために築城し、以来、金上 (かながみ) 氏代々の居城となった。
戦国時代には蘆名氏の越後への進攻拠点となり、度々上杉氏と争った。天正六年(1578年)上杉謙信の急死により勃発した御館の乱で、城主の金上盛備(もりはる)は蘆名盛氏の命を受けて越後国蒲原郡に上杉景虎方として侵攻した。
天正九年(1581年)に勃発した新発田重家の乱に於いては、上杉景勝は蘆名盛隆が新発田重家に加勢しないように林泉寺の住持・宗鶴を会津に派遣し、盛備にも誓書を求めた。このため盛備は一時表面上中立を保ったが、後には公然と重家を援助した。
天正十五年(1587年)、景勝が蘆名氏から重家への援助を断つため、金上氏の支城・赤谷城攻撃に向かうと、盛備は赤谷城に救援に向かうが藤田信吉に敗れ、赤谷城は陥落した。
天正十七年(1589年)六月蘆名義弘は米沢から侵攻した伊達政宗と磐梯山麓に戦って敗れ、馳せ参じた盛備は摺上原の戦いで討死した。子の盛実は伊達政宗に降伏し、津川城を没収された。
津川城は原田宗時に与えられたが、天正十八年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置により津川城は没収された。
政宗に代わって会津に入封した蒲生氏郷は北川平左衛門を津川城主とし、景勝が会津に移封されると藤田信吉が城主となった。
関ヶ原の戦いの直前の慶長五年(1600年)に信吉が上杉家を追われて徳川家康の下に逃れると、津川城には鮎川帯刀(たてわき)が配置された。関ヶ原の戦いの後、会津に蒲生氏郷の子・秀行が復帰すると、岡重政が城主となった。
寛永四年(1627年)、加藤嘉明が蒲生氏に代わって会津に入封した際に、幕府の命令により廃城となった。