三条城 (さんじょうじょう) (三条島城)
所在地 新潟県三条市元町11−6 2014.7.20 2017.6.5
三条城 (さんじょうじょう) (三条島城)
所在地 新潟県三条市元町11−6 2014.7.20 2017.6.5
説明案内板
弥彦線高架下の説明案内板
三条小学校
三条島ノ城跡碑
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 旧三条小学校(表記番地)が本丸跡であり、遺構は消滅している。二の丸、三の丸、内堀、外堀があった。
外堀の東側が三条市立図書館(元町1−6)の辺り、外堀の西側が三条鍛冶道場(元町11−53)の西側付近に在ったと推定される。
説明看板が県道8号線の弥彦線北三条駅高架下に設置されている[マップコード58 775 481*27] (地図)。
また、約1㎞西の信濃川を渡った、県道1号線南の「三条防災ステーション交流広場」入口横に慶長十五年以前に在った古城「三条島ノ城跡」の石碑が建てられている(地図)。
元和二年(1616年)旧三条小学校一帯に移城するまで利用された城跡である。
南方の本成寺参道に三条城黒門が移築されている(三条市西本成寺1丁目16−25)(地図)。
【歴史】 最初に城が築かれた時期は不明だが、平安時代に三条左衛門が築き、前九年の役の後、安倍貞任(さだとう)の郎党、黒鳥兵衛が攻め落としたという。
南北朝時代には南朝方の池氏の拠点となった。
室町時代になると守護代長尾邦景方の山吉久盛の拠点となり、応永三十年(1423年)には、守護上杉房朝方の中条房資・黒川基実・加地氏・新発田氏に攻められるが、黒川基実・加地氏・新発田氏が寝返り落城しなかった。
戦国時代も代々山吉氏の居城となっていたが、山吉豊守が天正五年(1577年)九月に死去し、嗣子がなかったために弟の山吉景長が山吉氏を嗣いだが、領地は半減されて木場城に移され、三条城には神余親綱(かなまりちかつな)が入った。
天正六年(1578年)上杉謙信の急死により勃発した「御館の乱」で、神余親綱は栃尾城主の本庄秀綱と示し合わせて上杉景虎に与し、上杉景勝に対抗した。
景虎死後も景勝に対抗していたが、山吉景長が城内の旧臣に呼びかけて内応を誘い、天正八年(1580年)六月に落城、神余親綱は自刃した。
その後景勝は三条城を応急普請し甘粕長重を城主に据え、天正九年(1581年)に勃発した新発田重家の乱において中継拠点として度々利用された。
上杉景勝の会津移封後は堀秀治の家老堀直政が城主となり、直政嫡男の堀直清が城代となった。慶長五年(1600年)の上杉遺民一揆の際に攻撃を受けるも堅守した。
慶長十五年(1610年)に堀家が改易になると三条城は、一旦廃城となった。
江戸時代になると元和二年(1616年)、市橋下総守長勝が三条藩4万千3百石に任じられ、以前に在った城(三条島城)が川欠けで失われていたため、信濃川の対岸東側にあらたに築城した。
市橋氏は在城5年で改易となり、稲垣重綱が入ったが、寛永十九年(1642年)、幕府の命により廃城となり、取り壊された。
正保元年(1644年)徳川氏の直臣本多忠義の支配地となり、慶安二年(1649年)松平直矩の治下に引き継がれた。以後多少の入れ替えはあったが、榊原・本多・松平・間部・内藤氏など徳川氏譜代の大名によって統治された。
はじめ陣屋は燕に設けられたが、元禄元年(1688年)三条陣屋に移転した。