長島城 (ながしまじょう)
最寄地 三重県北牟婁郡紀北町長島1406-1 2016.4.26
長島城 (ながしまじょう)
最寄地 三重県北牟婁郡紀北町長島1406-1 2016.4.26
登城ルート
長島神社
愛宕山大権現
本丸跡・城跡碑
本丸跡・櫓台
説明板
西側堀切
西の曲輪
長島城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高130m】
【案内・感想】 国道42号線より東に約360m行った長島神社(表記番地)に駐車できる[マップコード331 715 485*86]。
長島神社拝殿の右より長島公園に行き、表忠碑を経て愛宕山大権現の横より頂上まで木道が付いている。
標高142.8m比高約130mの山頂に長島城跡があり、城跡碑、説明板が建てられている。西側の櫓台には、消防防災無線通信施設・鉄塔が設置されている。城跡碑の虎口から下り西へゆくと堀切があり、曲輪がある。
昭和四十五年(1970年)4月1日、紀北町の指定文化財になった。
【歴史】 至徳元年(1384年)北畠氏の家臣であった加藤甚左衛門が築城した。
応永二年(1395年)に奥村氏が尾鷲・紀伊長島に向かって攻めてきたため、加藤甚左衛門は尾鷲で迎え撃ったが内通者がいたため敗れ、その後、自刃した。
天正四年(1576年)織田信長の次男で伊勢国司北畠具房(ともふさ)の養子となった織田信雄に5代目加藤甚五郎と奥村氏は熊野征伐を命じられた。
三木城(現在の三重県尾鷲市)を攻め落とした堀内氏善は少しの兵力を残して堀内新宮城に帰ったが、それを狙って加藤甚五郎は奥村氏と三木城を攻め落とし、在城した。
これを知った堀内氏善は同年、2千の兵力を率いて夜討ちをかけた。加藤甚五郎の軍勢は多数の死傷者を出しながらも何とか本拠長島城に戻ったが、追撃してきた熊野勢を迎え撃ったが、奥村氏の内通などもあり、数ヶ月間戦った後、紀伊長島城は落城焼失し、加藤甚五郎は自刃した。54歳であったといわれている。
太平洋戦争の時に軍事監視所が置かれていた。