ちんちん生えてきた(06)

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■フォート・デトリック USA  8月18日


 キャサリンは閉鎖が解除されたユーサムリッドの実験室で助手のジョン・メイヤーズとともにRNA染色の作業をしていた。

 マギ・ウイルス――非公式にはそう呼ばれていた――の研究はすでに世界中の大学や医療機関で行われている。感染の実態が明らかになるにつれCDCは対策に本腰を入れ、キャサリンの仕事はより上級の職員に移管されることになった。キャサリンは自分が外されたことに反発した。パンデミックの初期に発表したいくつかのレターが注目されていたものの、研究がこれからというときにキャリアアップのチャンスを奪われたのだ。

 いまはユーサムリッドに出向という形で軍属になっている。任務はといえば、ネバダ州の地下にある秘密研究施設にいるポドルスキーとの連絡役だ。これはポドルスキーの指名だったが、見返りにフォート・デトリックにある最先端の超高性能レーザー顕微鏡を自由に使えるよう取り計らってくれた。キャサリンはそれを使ってマギ・ウイルスがどのように人体に作用するのかを突き止めようとしていた。

「ところで、キャサリン。天宮の事件は聞きましたか?」

「天宮?」

「中国の宇宙ステーションですよ。五人のクルーが全員感染、二人がアナフィラキシーショックで死亡したそうです。中国政府はまだ何も発表していませんがね。遺体を地球に降ろすかどうかで揉めているらしいです」

 メイヤーズのいつもの雑談だろうと思っていたキャサリンは手を止めた。夏になってからアナフィラキシーによる死者が激増していて、抗原検査をした全員がマギ陽性だと判明している。ウイルスの主症状は精巣の細胞が死滅することだが、それで死亡した患者はいない。アナフィラキシーを起こした患者も、それがウイルスが原因なのかどうかは明確になっていなかった。

「クルーはいつから宇宙に?」

「半年前という話です。つまり、潜伏期間が半年以上あるということですね」

 何か引っかかるものを感じてキャサリンは考え込んだ。原子力潜水艦ネレイドが出港したのは4月。感染はそれ以前に起きていたことになる。現在見つかっている感染者は7月以降突然現れた。その後はほぼ一定のペースで感染者が増えている。特定の地域で発生して広まったのではなく、全世界同時に始まったのだ。まるで全人類がすでに感染していて、発症するかどうかをサイコロで決めているみたいだ。エイリアンによる攻撃なんて与太話は問題外としても、普通のパンデミックとはまるで性格が異なっている。

 メイヤーズが用意のできた試料を顕微鏡にセットした。これまで何十という試料を観察してきた。今回は発症から間もない十代の男性から採取した生細胞だ。ディスプレイに細胞の内部の様子が映し出された。蛍光を発する細い紐状のRNAが複数見える。細胞内に侵入したマギ・ウイルスだ。

「やはりウイルス粒子らしいものは見えませんね。核酸だけです。これでどうやって感染していくんでしょうか」

「ほかの細胞も見てみましょう」

 次の細胞にはウイルスの姿が見えなかった。かわりにDNAから転写されたばかりのmRNA前駆体が見えた。ヘテロ核RNAとも呼ばれ、ここから不要部分を取り除いてメッセンジャーRNAが作られる。このメッセンジャーRNAをリボソームがスキャンしてタンパク質が作られていくのが生命活動の基本だ。

「キャサリン、いまの見ましたか?」

 メイヤーズが興奮した声をあげた。

「ええ。mRNA前駆体の切断された断片がマギ・ウイルスに変化したように見えたけれど……」

「ぼくにもそう見えました。逆転写によるウイルスの増殖ではありませんね。何が起きたんでしょうか」

「ウイルス本体のほかにも小片のようなものがある。倍率を上げられる?」

 拡大してみると、その小片らしいものは動き回っているように見えた。ブラウン運動で小刻みに震えながら精子のように泳いでいる。キャサリンは間違って倍率を下げてしまってウイルスとは無関係な細菌を見ているのかと思ったくらいだ。

 キャサリンとメイヤーズはそれから何時間も食事も取らずに観察をつづけた。

 深夜近くになってポドルスキーから連絡が入ったため、ようやくキャサリンは顕微鏡の前を離れた。ハイになった脳みそは痺れていたが、疲れはまったく感じない。

 一方、PCの画面に映ったポドルスキーの顔はやつれて見えた。キャサリンはポドルスキーが口を開く前に自分の発見のことを話し、録画した顕微鏡映像を見せた。

「どう思いますか、ミハイル。馬鹿なことを言っていると思うかも知れませんが、ヒトのDNAから転写されたイントロンが自己スプライシングによってウイルスを作っているように思います。しかも、ウイルスは一種類じゃない。極小のものが確認できただけで八種類。これが酵素の働きをしてヒトのDNAを攻撃――、というより編集しているんです。それどころか、ウイルスの染色によってできた変異を自己修復していることも確認できました。明朝からTEMを使ってもっと詳細を調べるつもりです」

 ポドルスキーは黙って聞いていたが、やがて「なるほど」とつぶやいた。

「感染経路がわからなかったのも道理だ。キャサリン、感染経路などなかったのだ。南極では感染者が出ていないので、当初このウイルスは低温では不活性化するのではないかと考えていた。しかし、8月以降に南極入りした者が次々に発症している。それなのに、元から南極に滞在していた者には伝染らない。我々は感染者の血液を非感染者に輸血することさえ実験してみたのだよ。感染はしなかった。それでいて完全隔離した施設でもガラス越しに感染が発生している。針刺し事故もガスケットの劣化もなかったのに、だ」

 キャサリンはポドルスキーがやけに熱っぽく話す理由を悟った。

「そちらで感染事故が起きたのですか?」

「うむ。わたしも発症した。研究所のほとんどのスタッフ、地上の農業試験場のスタッフにも広がって、ここは閉鎖されている。それで連絡したのだ。しかし、ヒトヒト感染がないと証明できれば、我々の隔離も早期に解除できるだろう」

「まさか、その施設に自動で起動される核自爆装置があるという噂は本当じゃないでしょうね?」

「まさか。映画や小説じゃあるまいし。だが、閉鎖プロトコルが動いているから簡単には出られない」

 文句を言っているがポドルスキーは内心おびえているように見えた。ウイルスが原因かはわからないものの、感染者の中にはアナフィラキシーショックを起こす者もいる。いまわかっているかぎりでは、その症状が出た患者は全員死亡しているのだ。

「それにしても、発症のトリガーは何でしょう。それがわかればパンデミックを終息させられるはずです」

「無論、マギだ」

 ポドルスキーは、そんなこともわからないのか、とインターンをなじる教授のように言った。キャサリンはいつものポドルスキーらしさを感じて心のなかで微笑んだ。

「中国の宇宙ステーションの件は聞いたか? マギ以外に考えられん。きみの報告と合わせて考えればいろいろと合点がいく。もちろん、マギ・シグナルの微弱な電波を浴びてヒトの遺伝子が変化するはずがない。しかし、マギが様々な波長の電磁波で信号を発していることを考えれば、我々が検出できていない何らかの放射線が作用している可能性も否定できない。南極で感染者が出ないのは地球自体が遮蔽物になっているからだとしたら説明がつく。ウイルスのゲノムがまったく変異せず、世界中どの患者から取ったサンプルも完全一致するのも、そもそもこれがウイルスなどではなく――、そうだな、セントラルドグマの中から湧き出してくるナノマシンなのだとしたらどうだ。感染を防ぐ手立てはない。というより、人類は全員すでに感染済だと考えた方がいい。ワクチンも抗ウイルス薬も効かない。免疫も無効だ。発症した男性は不妊になる。このままパンデミックが続くのだとしたら、あと百年で人類は滅びる」

 人類滅亡。初めて会ったときもポドルスキーはそんなことを言っていたな、とキャサリンは思った。もうずいぶん昔のことのように感じられた。

 キャサリンはちいさくため息をついた。

「『だとしたら』ばかりじゃないですか、中佐。そんなのはすべて仮説にすぎません」

「だから、きみがその仮説を証明するんだよ」

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