あの日の男 (03) Fin

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彼はシガリロをもてあそびながら、視線をそらせたまま言った。

ありえない、と思った。あの人は支援する女性のことをいつも親身になって考えている。人間的にも尊敬できる人だ。確かにわたしは上司の真面目さを試すように、性的なアピールをしてみたことはある。でも、彼は性欲に流されるようなタイプではない。

この男はおかしい。おそらく、わたしがほかの男性と一緒にいるだけでも気に入らないのだろう。わたしは職業柄、そうした男たちを何人も見てきた。ほんの少しでもこの男に気を許した自分が、愚かに思えた。

この男とはもう関わらない方がいい。

そう思って立ち上がろうとしたとき、彼がシガリロに火をつけた。普通のタバコよりきつい甘い臭いが広がった。その臭気に、めまいを感じた。

わたしは立ち上がって、

「失礼するわ」

「ああ、父親を殺したやつのことなど二度と考えようとするな」

立ち上る煙に、心の奥をかき回されるような気がした。

この男は何を言っているんだ。

「父はわたしが物心つく前に亡くなったわ」

父の顔は覚えていない。わたしは母と二人で暮らしてきたのだ。母は父の話をしたがらなかったが、事故で亡くなったそうだ。

わたしは足元がよろけて、カウンターに両手をついて体を支えた。急にまた、あの日のことが脳裏にフラッシュバックしたのだ。

ナイフ、いまではそれがダガーナイフと呼ばれるものだったとわかるのだが、そのナイフであいつの顔や胸や腹を突き刺し、返り血で真っ赤になりながら、さらに突き刺し、突き刺し、そして……。

仕事の上で、何人かの女性が事件のフラッシュバックに苦しむところを見たことがある。性的な暴力にさらされた後、事件から何年もたっているのに、当時と似た五感の刺激によって記憶を鮮明に呼び覚まされ、事件を追体験してしまうのだ。

嗅覚は記憶と関連が強いと言われている。それが自分でも気づかずに心の奥底に封じ込めていた記憶をよみがえらせることがある。

毎晩のようにわたしを犯したあの男……。

タバコの煙……。

血まみれの両手……。

誰も助けてはくれなかった……。

知らない記憶。

男を受け入れたことのないはずの体の奥が、鈍痛を覚えている。視界がぐるぐる回った。息ができない。

「もう俺を呼ぶな。お前はもう大人だ。俺を呼ばなきゃならない状況にはまり込むのはよせ」

彼の声が遠くで聞こえた。

倒れそうになるのを必死にこらえていると、だんだんと発作が治まってきた。呼吸が楽になってくる。気がつくとわたしはカウンターにしがみつくようにして脂汗を浮かべていた。

わたしはハイヒールのかかとが床についているのを確認して、立っていられる自信を取り戻すと、顔をあげた。

隣の席にいたはずのあの男は、どこにもいなかった。まるで最初から誰もいなかったかのように、消え失せていた。男の吸っていたシガリロの甘い残り香だけがかすかにただよっているような気がした。

わたしはハンカチを取り出そうとバッグに手を入れた。その手が硬いものにあたった。わたしはいつからそれを持ち歩いていたのだろう。

それは血の染みがついたダガーナイフだった。

おわり

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