ふたりだけの残業時間 (12) Fin

[Back]

美琴は恐怖のあまり足がすくんでしまった。口元を両手で押さえ、悲鳴をあげそうなのをこらえた。

奥さんから……?

美琴は窓の外に視線を走らせた。本郷さんの奥さんが何か不思議な力で見張っていたのではないか。そんなふうに思えたのだ。

そして小娘が夫を誘惑するのに成功したとたん、ストップをかけるために電話してきたのだ。そうとしか思えなかった。

奥さんがいる人を好きになってしまい、その人とキスしてしまった。

美琴はいまさらながらに自分のしたことの恐ろしさに震えた。万引きを見つかったときには、きっとこんな気持ちになるのだろうと思った。

本郷さんが美琴を見た。

美琴は何も言えなかった。

この人が好きだ。でも、それは自分ひとりの心の奥に秘めておくべきだったのだ。

本郷さんが奥さんからの電話に出る様子を、美琴はじっと見守るしかなかった。

身動きひとつできない。ちょっとでも動けば、電話を通して自分の気配が奥さんに伝わってしまう。そう思うと、息をすることさえできなかった。

「もしもし、俺だ」

本郷さんが奥さんに応えた。奥さんの声がかすかに漏れてくる。何を言っているのかまではわからない。

「うん、……、ああ、まだ会社だ。……、そうだ、うん」

本郷さんがまた美琴を見た。そして硬い口調で言った。

「まだ仕事が残っているんだ。きょうは遅くなる。あまり遅くなるようだったら、きみは先に寝ててくれ」

美琴は目をぎゅっと閉じた。

(本郷さんがあたしを選んでくれた……)

うれしくて――、同時に不安でたまらなかった。

本郷さんが電話を切ったあと、長い沈黙が訪れた。静寂に耐え切れなくなった美琴が目を開けると、本郷さんがいつくしむように見つめていた。

美琴の気持ちが落ち着くまでじっと待っていてくれたのだ。

本郷さんが美琴に歩み寄ると、美琴はまた怖くなって、思わず後ずさりした。パンプスのかかとが窓ガラスにぶつかって音をたてた。

うつむいて黙っている美琴の両側をふさぐように、本郷さんが窓ガラスに両手をついた。

「俺には妻がいる。子供もふたりいる。家庭を壊すことはできない」

「はい……」

「俺はきみを傷つけてしまうだろう。壊してしまうかもしれない」

「……」

本郷さんが顔を近づけてきた。

「誰にも知られてはならないし、誰からも祝福されることはない。俺はきみに何も約束できない。あるのは自己中心的でわがままな欲望だけだ。だから、雪村さんが拒むのなら、これ以上は何もしない」

美琴はあわてて顔をあげた。

本郷さんにじっと見つめられている。

「あ、あたしは……」

「不安なんだろ? それがあたりまえだ。なら俺だけを見ろ。俺はきみと一緒にいたい。好きだ、雪村さん。世界の誰よりも」

本郷さんには家庭がある。奥さんと別れるつもりはないと断言している。不倫の関係に甘んじることを要求している。

けれど、そのことでかえって本郷さんを信じられるような気がした。本郷さんの真剣さを感じた。体だけが目的ならこんなことを言うはずがない。

たとえ奥さんがいても、本郷さんのことが好きなのだ。その本郷さんから愛を告白されて、求められている。これ以上の何を望めるというのだ。

「傷ついてもいいです。本郷さんと一緒にいたい。好きです」

美琴は感極まって、泣き笑いしながら答えた。

目を閉じる。

本郷さんに抱き寄せられ、深く熱くキスされた。

美琴はまだ知らない。不倫の恋がどれほど苦しいものなのか。

美琴はまだ実感できない。心と体をもてあそばれて捨てられる日がいつか来るのだということが。

それでもいいと思った。

ゆっくりと服を脱がされていくのを感じて、本郷さんに身を委ねた。

美琴はこの恋を選んだのだ。

おわり

[Back]

[ふたりだけの残業時間]

[作品リスト]

Copyright © 2013 Nanamiyuu