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気持ちが落ち着いてから、サンダルをはいて立ち上がった。舐められたところを洗いたい。どこかのホテルでこっそりシャワーを浴びさせてもらおう。
一年前、スカウトだというホストふうの男に連れ込まれたホテルは道玄坂のほうだ。さがしてみようか。もう一年が過ぎたのだ。忘れようと思ってもムリだけど、もう乗り越えてもいい頃だ。いまのわたしなら、あのホテルの前まで行けると思う。自分の身に起きたことを受け入れられると思う。
そう考えて、フッと笑ってしまった。
このメガネの力がもたらした冒険がわたしを変えてしまった。いじめられていた中学時代も、目立たないようにしていた高校時代も、だまされてビデオを撮られたことを悔やみつづけたこの一年も、すべて克服したんだ。
もういままでのわたしじゃない。
新宿へもどって服を着た。横浜の自宅に帰る前に、もう一度、メガネを買った雑貨屋に行ってみることにした。痴漢に追われて途中下車した駅でおり、夕方の買い物客で混み合う商店街に向かった。
雑貨屋は見つからなかった。変だなと思いながら、商店街の端から一軒ずつよく確認しながらさがした。それでも見つからなかった。
同じことを三回ほど試して、さがすのをあきらめた。たぶん店はここにあるのだろう。わたしの目にはうつっているのだろう。でも、存在を認識できないんだ。
店主のお爺さんはもしかすると神さまだったのかもしれない。
痴漢に追いかけられていたわたしを助けるために、ちょっとした気まぐれで手を差し伸べてくださったのだ。
きょうの出来事をふりかえってみた。
痴漢に襲われて怖い思いをしたこと。
フーコとメグの本当の気持ちを知ってしまったこと。
それから佐藤さんとの出会い。
あのときホテルで佐藤さんに抱かれていたら、きっと恋してしまっていただろう。佐藤さんはずっとがまんしてくれていた。いつでも襲うことができたのに、わたしのことを尊重してくれた。こんな人は初めてだ。
佐藤さんはわたしをだましていた。契約してしまえば手のひらを返したように、男たちのあいだで売り買いされる商品としての扱いしかされないかもしれない。
それでもいいと思う自分がいる。
佐藤さんの目は商品を見る目かもしれないけれど、わたしの内面を見てくれた。わかってくれた。
流されたくない。状況に流されたくないから、あのとき逃げ出した。
自分のために、はっきりと自分の意志で決めたいのだ。
「やってみようかな、アダルトビデオ」
佐藤さんにもらった名刺を取り出してながめた。
きょう見つけた新しい自分。新しい可能性。佐藤さんの名刺は未来へのパスポートのように思われた。
わたしはケータイを取り出すと、佐藤さんのケータイ番号を入力した。通話ボタンに親指をのせる。このボタンを押すことは、未来へ踏み出すということだ。
メガネが見せてくれた新しい自分。もう元のわたしにはもどりたくない。
こんなわたしにも可能性があるなら、未来をつかみたい。
「やってみよう。わたし、AV女優になる!」
わたしは電話をかけ、最初の一歩を踏み出した。
おわり
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