蒸し暑い……。
熱帯夜に悪夢にうなされて目が覚めたときのように、彩香はハッと目を開けた。
首筋が汗でびっしょりと濡れていた。汗をぬぐうために手をあげようとしたが動かない。何かが全身に巻き付いている。それで触手の怪物のことを思い出し、あわてて首だけを動かして周囲を見渡した。
あたりは薄暗く、目が慣れるまでまわりの様子がわからなかった。
広い空間だった。円筒状で天井が高く、壁は蜂の巣を思わせる六角形のブロックで埋められている。巨大な洗濯機のドラムの底にいるような気分だ。天井近くに黄色いステンドグラスのような明かり窓があって、淡い光が入ってくる。サウナのように蒸気が立ち込め、アロマオイルらしきやわらかい香りが充満していた。
彩香はフランスパンのバゲットでできた網のようなものにからめられていた。力を込めて腕を動かすと、バゲットがちぎれて腕が自由になった。ホッとして額の汗をぬぐった。何かがべっとりと顔についた。手を見ると真っ赤に染まっている。彩香は悲鳴をあげたが、よく見るとイチゴジャムだった。
そこでようやく自分が五体満足で、どこにもケガをしていないことに気づいた。
怪物に食べられたとき、内蔵を引き裂かれて血肉が飛び散ったと思ったのだが、実際にはイチゴジャムだったのだ。体中がイチゴジャムと、白い触手が分泌していた練乳のような白濁液にまみれていた。
とにかく無事だ。
じゃあ、美緒は……?
彩香はもう一度首をめぐらせて美緒の姿を探した。
「美緒!」
数メートル離れたところに美緒がいた。彩香と同じように、バゲットの編みかごに囚われている。眠っているように動かない。まだ生きているのだろうか。生きていてほしい。
彩香は大急ぎで体に巻き付いているバゲットを引きちぎり始めた。本物のフランスパンと同じように苦労しながらも、すこしずつ体の自由を取り戻していく。
ふと、視界の隅で何かが動いたのに気づいた。
そちらに目をやると、壁際にボール状の物体がうごめいていた。軽自動車ほどのサイズの、ハチミツのかたまりを思わせる黄色い半透明の何かが、ゆっくりと彩香たちの方に近づいてくる。
スライムだ。
ドスンッ、という低い音がして別のスライムが壁際に出現した。上から落下してきたのだ。上方に目をやった彩香はにわかに息苦しくなった。壁をつたって何十匹ものスライムが降りてくる。床の近くまで降りてくるとスライムは床にジャンプして、恐竜の足音のようなドスンッという音をひびかせた。
スライムはどれもこれも中央にいる彩香たちを狙っているのは明らかだ。
不意に彩香は腹部に違和感を覚えた。手を触れてみると、お腹が異様にふくれていた。妊娠六ヶ月といったところか。すこし苦しい。
何かが体の中からトントンとたたいているのを感じる。もちろん妊娠しているはずはない。お腹を蹴るのが胎児でないならこれは別の生き物だ。彩香は吐き気をこらえた。一匹だけじゃない。何匹もの得体の知れないものが体の中でうごめいている。
考えられるのは、触手に何かを植え付けられたということだ。異星の宇宙船の残骸を調査していた宇宙飛行士が異星生物に襲われて卵を植え付けられてしまうという古いSF映画を思い出した。
今度こそ彩香は恐るべき真相へとたどりついた。
いままで触手の怪物のエサとして放り込まれたものと思っていたが、そうではない。あの触手の怪物はこのレストランのシェフ――いや、パティシエか――で、スライムがレストランの客なのだ。彩香と美緒はお菓子として調理されたのだ。十分に肉の旨味が出るまで何度もイカされ、卵だか何だかをアンコがわりにアソコの奥に詰め込まれ、全身にイチゴジャムと練乳クリームを塗られて、パン菓子に仕立てあげられた。そして、いままさにテーブルの上に載せられている。これがホントのスイーツ女子だ。
スライムはすでに彩香たちを取り囲んでいた。カタツムリのようにゆっくりとだが、確実に迫ってくる。五分もすればここまでくるだろう。逃げ道はない。
まだ生きていることに気づいたときに感じたわずかな希望もついえてしまった。死がすこしばかり先延ばしにされただけだった。ほんの五分ほど時間が巻き戻されただけで、ふたたび確実な死がやってくる。
けれど――。
五分あれば人生最大の後悔を払拭できる。
彩香は必死にパンを引きちぎり、とうとう自由になって床に転げ落ちた。
床はホットケーキでできていた。焼きたてなのかまだ熱い。ホットケーキにハチミツ。どこまでもお菓子の世界がつづいている。
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