落としたケータイが下のコンクリートにあたって砕ける音が聞こえた。
一瞬の静寂。そして――。
突然、あたりの音がはっきり聞こえはじめた。風がコートをはためかせるバタバタという音。大通りから聞こえてくる車のエンジン音。電車が線路を駆け抜ける音。
そして、あたしがつかんでいる金網がきしむ音。
肌を切るような冷たい風。体を支えている両腕の筋肉の熱さ。
さっきまで感じていなかったなにもかも。
ちょうど、悪夢から覚めた目に朝の光が飛び込んでくるように。
両手で金網をしっかりとつかんだ。あたしは屋上の縁から一メートルほども下にぶらさがっていた。金網の一部はまだ枠に固定されていて、おかげであたしは落ちずにすんだ。ところが、枠自体が徐々にゆがみはじめた。このままだと枠ごと落下してしまう。金網をよじ登ろうとしたけど、足をかける場所がない。
死にたくない。
はげしい後悔にかられた。あと何分持ちこたえられるだろう。枠がはずれるのが先か、あたしが力尽きるのが先か。どっちにしても長くはない。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
生きていたからって、いいことなんてないのに。
それでもあたしは希望を捨て切れないんだろうか。
死のうとした瞬間に、まだ生きていたいと思うなんて。
お姫さまになんてなれっこないのに。
死んだ方がいいと訴える心に体が抗議してる。手が金網を離そうとしない。なんて臆病者だ。あんなに傷つけられて、それでも生きていたいと思うなんて。なさけない。みじめすぎる。希望があるからじゃない。ただ死ぬのが怖いだけなのに。
あたしの中の葛藤にもかかわらず、運命はもう決まっていた。あたしが生きるか死ぬかで迷っていることとはまったく無関係に、金網の枠がどんどんひしゃげていく。もうあたしには決定権はない。
自分自身のことがくやしくてたまらなかった。
そのとき、だしぬけに頭上にギリさんが姿を現した。
「沙希ちゃん!」
ギリさんはためらうことなく金網を乗り越えると、あたしに手を伸ばした。その手はあたしの手から二十センチほどのところにある。
「つかまって! 沙希ちゃん、早く!」
体がこわばって手を動かすことができなかった。ギリさんは体勢を変えて、ビルの屋上から半身を乗り出して思い切り手を伸ばすと、ぐいっとあたしの手首をつかんだ。
「沙希ちゃん、ぼくが支えているから、金網をよじ登ってくるんだ。この体勢じゃきみを引っ張り上げるのは無理だ。頼む。きみを失いたくない。沙希ちゃんが好きだ」
「この期に及んでウソつかなくてもいいです」
「ウソじゃない! きょう、はっきりわかった。ぼくはきみが好きだ」
「ずっと好きだって言ってくれてたのに、ウソだったじゃないですか。どうしていまの言葉を信じられるっていうんですか」
あたしは両手を金網から離した。ギリさんがうめいた。あたしの全体重がギリさんの左腕にかかった。
ギリさんが手を離せば、あたしは死ぬ。
「沙希ちゃん!」
「これ以上、ウソであたしを傷つけないでください」
「好きだ、沙希ちゃん! これがぼくの本心だ。たしかにウソをついてきみに近づいた。体が目的だったというのも本当だ。ぼくに頼りきっているきみなら簡単にヤレると思った。最初にきみが言ったとおり、レイプ願望のある子だからチョロいと思ったよ。でも、あの日、アパートの前で震えながらぼくの帰りを待っていたきみを見て思った。この子をまもらなきゃ。この子を助けたい。そう思ったんだ」
ギリさんの手がゆるみ、あたしの手がすこしずつ離れはじめた。ギリさんが必死になってつかみなおした。
「ギリさんの気持ちは愛情とはちがいますよ。同情ですらないです」
「そんなこと関係ない! 好きなんだ。ぼくはきみにハマってしまったんだ。だから、この手はぜったいに離さない! たとえ、ふたりとも落ちて死ぬとしてもだ」
さすがに本気でいっしょに死ぬつもりはないだろう。けれど、その言葉はあたしに届いた。ふたたび金網をつかむと、ギリさんに微笑んだ。
「この状況で、ウソもそこまでいくと大したものだね。それに、あたしなんかのためにあなたが死ぬことはないよ」
あたしはギリさんの手を借りて金網をよじのぼると、どうにかこうにか屋上の安全な場所に戻った。ギリさんはぐったりした表情で、息を荒げて、へたりこんだ。
「『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』」
あたしがつぶやくとギリさんが力なく笑った。
「ニーチェだね。ぼく的には『ミイラ取りがミイラになった』、――かな」
[援交ダイアリー]
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