外に出たあたしは全力で走った。
何も考えることができなかった。
雑踏の中を何か叫びながら走り抜けた。
何度か転んだけど、すぐに起き上がって、どこへともなく走りつづけた。
そのあとどこへ行ってどうなったのかわからない。
気がつくとあたしは二階の窓を見上げながら道路に立ちすくんでいた。見上げているのがギリさんと同棲したアパートの窓だと気づくのに、しばらく時間が必要だった。
戻ってきてしまったんだ。
けれど、あの部屋はもうあたしを受け入れてはくれない。
日が沈んだ直後らしい。藍色の空をバックに、明かりのついていないアパートのシルエットが廃墟のようだ。
持っていた通学バッグを地面に落とした。あたしは疲れきっていた。冷えた体は重くてうまく動かない。こめかみがジンジンする。
電池が切れそうなんだ。
寒い。
絶望が寒さとして感じられるんだと思ったけど、それだけじゃなかった。なぜかあたしはスクールセーターを着ていなかった。はいていたはずのタイツもなくなっている。素足にローファーだった。ブラウスのボタンがいくつかなくなっていて、どうやらパンツもはいていない。ブレザーには白い汚れがついていた。
怖くなってコートの襟をあわせ、体を隠した。
記憶が途切れてる。
何も覚えていない。
でも、もうどうでもいい。
握りしめていたケータイがブーンと震えて着信を告げた。見ると、ギリさんからの電話だった。放っておくとやがて切れた。ギリさんからの着信履歴がいっぱいだった。メールも何通も入っていた。
悲しいとか、くやしいとか、そんな気持ちはわいてこない。
それどころか何も感じない。
あたしは背後を振り返った。取り壊されるのを待っている廃ビルがあった。八階か九階だろう。となりの建物との隙間に入ると、奥に非常階段を見つけた。鎖で通せんぼされているけど、防犯装置はないようだ。
老婆のような足取りで非常階段をのぼった。一段ずつ体を引っ張り上げるようにして、ようやく屋上にたどりついたときには、もうすっかり暗くなっていた。
屋上は空調設備とダクトでごちゃごちゃしていた。その間をぬって端まで歩いた。転落防止のために腰の高さほどの金網が設けられていた。その枠にもたれて見下ろすと、ギリさんのアパートが真下に見えた。
非常階段をのぼっている間にもギリさんからの電話やメールが何度も来ていた。
いまさらどんな言い訳も聞きたくない。
けれど、飛び降りる前にギリさんに伝えたいことがあった。
あたしはギリさんの番号に発信し、呼び出し音を聞きながら、金網を乗り越えた。片手で金網をつかんで体をささえた。下は真っ暗だ。
『もしもし! 沙希ちゃん? いまどこ? 大丈夫なのかい?』
ギリさんの声が耳元でひびいた。いまでは懐かしささえ感じる低い声。本気であたしを心配していたように聞こえる。だけど、それが演技じゃないとどうしてわかる?
『沙希ちゃん、本当にすまなかった。ぼくはどんなに謝っても足りないくらい、きみにひどいことをしてしまった。でもどうか早まらないでくれ。ぼくのことを恨んでもいい。憎んでもいい。でも、きみには生きていてほしいんだ』
「生きていても、いいことなんてないですよ」
『そんなことない。どうか、ぼくに償うチャンスを与えてくれ』
「ギリさん、謝ってくれなくてもいいです。もともとあたしは生きてる価値なんてない。セックスの道具としてしか必要とされない子なんです。ギリさんはオモチャを見つけて、そのオモチャで遊んだ。ただそれだけのことです」
『お願いだから自分のことをそんなふうに言わないでくれ。ぼくはきみのことが――』
「ねえ、ギリさん。あたしの人生は悪夢なんだと思うんですよ。そろそろ目覚めてもいい頃じゃないかな。でもね、最後にギリさんと過ごせた一週間は、あたし、しあわせだったと思います。ギリさんを恨んだり憎んだりする気持ちはないです。たとえぜんぶウソだったとしても、あたしはしあわせでしたよ。だから、死ぬ前にお礼を言いたくて電話したんです。ギリさん――、ありがとね。バイバイ」
『沙希ちゃん! 沙希ちゃん! ぼくはきみが好き――』
伝えたいことは言った、通話を切ろう。そう思って体を伸ばした瞬間、あたしがつかんでいた金網が、ピリピリと音を立てて枠からはずれた。バランスを崩したあたしの手からケータイがこぼれて、暗闇へと落下した。
支えを失ったあたしは屋上の縁から足を踏みはずした。あたしの体重を受けて、金網がさらに大きくめくりあがり、体が宙に舞った。
[援交ダイアリー]
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