月は出ていない。波の音が聞こえるけど、海のあるあたりは墨汁のように真っ黒だ。
「今日は雲もないし、星がよく見えるな」
と翔ちゃんがつぶやいた。
「ねえ、火星はどれ?」
翔ちゃんは東の空を見て、
「火星はまだ出てないな。夜中になったら見えるから、あとで見せてやるよ」
いや、泊まってかないって。
東の空にはオリオン座の三つ星が見えた。ベテルギウスがあったあたりには、いまは星はない。星の残骸が星雲になっているのを、前に翔ちゃんに望遠鏡で見せてもらった。中心にはブラックホールができているらしいけど、肉眼では見えない。
ベテルギウスがその一角になっていた冬の大三角は、今はなくなってしまった。冬の大三角という言葉は知っていたけど、実際に空を見上げてみたのは消滅したあとのことだ。なくなってしまう前に見ておけばよかった。
オリオン座のやや上の方に、ひときわ明るい星が見えた。
「あの明るいのがシリウスかな」
「あれは木星だ」
翔ちゃんは腕を大きく伸ばすと、南の空に弧を描いてみせた。
「こんなふうに軌道を描いて太陽の周りを回っているんだ」
そして、もう一方の腕を同じように北の空にめぐらせて、
「このあたりに天の川、つまり銀河系が広がってるんだ。もう少し暗くならないとはっきり見えないけど」
それから北東の空をさして、
「あそこにマルドゥックが見える。地球をかすめるときには、満月の三倍くらいの大きさに見えるはずだぜ」
翔ちゃんの声はしだいに熱をおびてきた。
どうやら、さっそく自分の世界に入り込んでしまったらしい。翔ちゃんが見上げている夜空は、あたしが見ているのとは違ってるんだろうな。
でもさ。
そんな翔ちゃんのことがあたしは好きなんだよね。
星空を見る翔ちゃんの目は、星のようにきらきらしていて。
無邪気で純粋でまっすぐで。
なんだかうらやましい。
男の子なんだな。
あたしは望遠鏡に歩み寄った。翔ちゃんが見ているものと同じものを見てみたくて、望遠鏡を覗いてみた。中央に土星が見えた。これまで何度も見せてもらった、たぶん夜空でいちばん神秘的な惑星。大気のせいでちょっとぼやけているけど、輪があるのがちゃんとわかる。
「あんまりはっきり輪が見えないだろ?」
背後から翔ちゃんが声をかけた。たしかに去年見せてもらったときはもっと輪がはっきり見えたように思う。
「ほとんど真横から土星の輪を見てるからなんだ。だから、輪が薄くなっててよく見えないんだよ。あと何年かすると、ちょうど土星を下から見上げるような角度で見れるようになるから、そうしたら圧巻だろうな」
「そうしたらまた見にきていい?」
「いつ来てもいいんだぞ」
そう言いながら、翔ちゃんがリモコンを操作した。かすかなモーター音をたてて、望遠鏡が少し下向きに角度を変えた。
[星くず迷路]
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