あたしは無遠慮に隣のブロックに男性と並んで座った。
「おじさん、ひょっとしてここに住んでるの?」
「まさか。どうしてそんなふうに思うんだ?」
「だって、きのうも同じ服で同じ場所に座ってたよ? なんか、しょんぼりして」
男性は虚を突かれた顔で、自嘲気味に唇をゆがめた。
「ちゃんと家はあるよ。お嬢ちゃんこそ、きのうと同じ服装じゃないかい?」
ぼーっとしてるようでも目立つ格好だから印象には残っていたようだ。あたしはペロッと舌を出して、おどけたように肩を軽くぶつけた。
「あたしはね、朝帰り。えへへ。あと、あたしはお嬢ちゃんじゃないよ。沙希だよ。沙希って漢字は、さんずいに少ない希望、って書くんだよ。おじさんは?」
変な子だなという様子で最初だけ煩わしそうな表情を見せたけど、どの道することもないんだし、とでも思ったのだろう。男性は初めてあたしの目を見て、
「ぼくは沢渡というんだ。沢を渡るという字を書くんだよ。それからね、沙希ちゃんの沙という字は砂のことだ。海の砂のように数え切れないほどたくさん、という意味だよ。寿限無という落語があってね――、いや、それはわからないか。だから、沙希ちゃんの名前は、少ない希望じゃなくて無限の希望という意味の名前なんだと思うよ」
あたしは素で目を丸くした。この人が印象とは違って知性と教養と、それに優しい心の持ち主だったからだ。
「えへへ、そんなふうに言われたの、初めてだよ。おじさん、いい人だね」
「いい人か。むしろ、どうでもいい人だよ。無意味に年だけとった、なんの役にも立たない無能なオヤジさ」
「ふーん」
沢渡さんは何か反応が欲しそうだったけど敢えて無視した。すると、ほんとは話し相手が欲しかったらしく話題を変えてきた。
「沙希ちゃんは朝帰りなんだって? そういうのはあまり良くないんじゃないかな。お家の人が心配するよ?」
「へーきだよ。心配してくれる人なんていないもん。おじさんこそ家出なんかして、奥さんや子供が心配するんじゃないの? もう何日もここでこうして座ってるんでしょ? 一度お家に帰った方がいいんじゃないかな」
沢渡さんが毎日家に帰っているのはわかっている。たぶん奥さんと不仲というわけでもないだろう。
沢渡さんはクックッと小さく笑って、
「もしかして月曜からここにいるのを見られていたのかな。でも、別に家出してるわけじゃないよ。今朝だって家で妻の作った朝ごはんを食べてきたしね。娘も息子も何も心配なんてしてないよ。沙希ちゃんは年はいくつ?」
「十五歳だよ」
「じゃあ中学生――、を卒業したところか。うちの子はこんど中二になるんだ。もしも、ぼくの娘が家出なんかしたら心配で心配で夜通し探し回ると思うけどな」
あたしはムスッとした表情を作った。
「あたし、お父さん、いないもん。お母さんは夜のお仕事で、あたしのことなんてかまってくれないし。きのうだって、あたしを放って男とデートに行っちゃったんだ」
沢渡さんは悪いことを言ってしまったというような顔で口ごもった。あたしのことは、あまり良好とはいえない家庭環境が嫌になって家出してきた少々おバカな少女、でも悪い人間ではなさそうだ、というような印象を持ったはずだ。いまのところ性的な視線は向けられていない。
「まあ、とにかく、沙希ちゃんみたいな可愛い子が夜中にひとりで出歩いていたら危ないよ。犯罪とかに巻き込まれたりしたら大変だ」
「うーん、たしかに野宿は大変だから誰かの家に泊めてもらおうかな」
「友達?」
「ちがうけど、SNSで探せば親切な人がすぐ見つかるらしいから」
「それってパパ活ってやつ? それはやめた方が――」
「パパ活じゃなくて援助交際って言ってほしいな。援助交際の方がだんぜんロマンチックじゃん。援助してくれる人と交際だもん。『あしながおじさん』みたい」
何か言おうとした沢渡さんを制して、
「あたし、こー見えても、け、経験あるんだからね。援助交際だって、もー、な、何回もやってるし。エッチなことなんて怖くないし……、もう子供じゃないんだからッ」
そう言ってから上目遣いに沢渡さんをうかがうと、回し車をクルクル回すハムスターでも見るような目でこちらを見ていた。あたしはウソは言ってないけど、沢渡さんはしっかり誤解している。
「あーっ、おじさん、いまエッチなこと考えてたでしょ。おじさんはダメだよ。あたしは優しくてカッコいい人が好きなんだから。まあ、おじさんは優しい人だと思うから、おっぱいくらい触らせてあげてもいいけど」
「それは光栄だね」
と、笑いを噛み殺しながら沢渡さんは言った。
[援交ダイアリー]
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