その男の顔は覚えていない。のしかかられ、体を押さえ付けられ、間近にその男の顔を見たはずなのだが、どんな男だったのか覚えていないのだ。
恐怖にかられ、パニックを起こしたわたしは、必死に助けを呼んだ。
彼を呼んだ。
どこかで見ているはずの彼を探して、助けを求めた。
そして彼は助けてくれた。怒りの咆哮をあげて現れた彼が、わたしを襲った男をナイフで刺し殺したのだ。救われたと思った。
その後のことは、よく覚えていない。
それ以来、彼は姿を見せなかった。だが、まさかわたしを助けてくれたことで十年以上も服役していたとは。今日までそのことに思い至らなかった自分を恥じた。
「あなたのために何かできることはないかしら?」
刑務所から出たばかりだとしたら、仕事もないだろうし、いろいろと困っているはずだ。お金を貸す程度のことしかできないかもしれないけれど、わたしでも力になれるだろう。そう思ったのだが、
「お前、つきあっている男はいるのか?」
そう聞かれて、ドキンとした。その後で軽い幻滅を覚えた。
「いないわ。実を言うと、恋人がいたためしはないの。子供の頃の体験のせいかもしれないし、いまの仕事のせいかもしれない。男性に対する不信感が拭えないのよ。だから、彼氏が欲しいなんて思えないの」
もしも、自分の女になれ、と彼が要求してきたらどうしようか、と思った。わたしのために彼が失った年月の代償として、わたしの体を求めてきたら。
あの日のことを思い出したせいで、わたしは彼のことを自分を守ってくれる庇護者のように思ってしまったようだ。なんとなく、彼はわたしの体が目当てなのではないんじゃないか、と思い込んでいた。しかし、けっきょく彼も、ほかの男と変わらない性欲のかたまりなのかもしれない。
だけど、彼が望むというのなら、多分わたしは断われないだろう。そんな気がした。それで彼に報いることができるなら、バージンを捨てるいい機会かもしれない。
「わたしを抱きたい? あの日のお礼に、やらせてあげてもいいわよ。小学生の女の子にしか興味がないってわけでもないんでしょ?」
彼が怒ったような目で睨んだ。
少し高飛車な態度にすぎたな、と思った。これじゃまるでビッチだ。わたしは恥ずかしくなって、組んでいた脚を元に戻すと、うつむいた。
「ごめんなさい」
彼は大きくため息をつくと、シガレットケースからシガリロを一本取り出した。
「俺のこともあの日のことも、全部忘れてしまえばいい。好きな男を作って、そいつと暮らして幸せになればいい。それが俺がお前にしてほしいことだ」
「わたしはあなたの払った犠牲に報いたいのよ」
「なら、あの男に気をつけろ」
誰のことだ、と思ったが、彼は店の奥の方に視線を向けた。壁の陰になって見えないが、わたしの同僚たちのいるテーブルの方。そこにいる男性は一人だけだ。
「あの人はただの職場の上司よ。何人かと一緒に誘われてきたの。真面目な人だし、奥さんだっているのよ」
「あいつがお前を見る目つきは普通じゃない。間違いない。あいつはお前を狙っている。俺にはわかるんだ」
[あの日の男]
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