小雨が降っていて気温も上がらなかったが、四時限目の体育は久しぶりに水泳の授業だった。このところ雨で中止になることが多かったせいか、ひたすら二十五メートルを泳ぐだけの授業だった。
由香は何も考えずに泳ぎ続けた。
奏は泳ぎも苦手らしく、五メートルおきに足をついては、犬かき同然の泳ぎ方をしていた。
男子は女子の水着姿にはしゃいでは、教師に怒鳴られていた。由香や奏のように美人でスタイルのいい女子は特に注目されていた。
そうしたことのすべてを無視して、無心に泳ぎ続けた。
泳いでいるあいだは何も考えずにいられたのだ。
授業が終わるまでに、八百メートル以上を泳いでいた。
授業のあと、更衣室で制服に着替え、心地よい疲労と空腹感を楽しんでいると、奏がじっと見ているのに気づいた。水着のまま、由香をにらんでいる。
奏はクラスの女子から無視されていたから、着替えようとしない奏を見ても、誰も声をかけようとしない。
着替え終わった生徒から更衣室を出ていく。由香もさっさと教室に戻るつもりだったけれど、奏の憎しみのこもった視線をあびて気が変わった。髪を乾かすふりをして、奏とふたりきりになるのを待った。
どうして奏から憎悪を向けられなければならないのか。奏を憎んでいるのは自分の方なのに。被害を受けているのはこっちだ。そう思うとイライラする。そのイライラを奏にぶつけてやらなければ気がすまない。
やがてほかの生徒がいなくなった。奏は濡れた水着のまま更衣室のすみに立って、由香を恨みがましく見つめていた。みんなが出ていくまでずっと、そうやって由香をにらんでいたのだ。異様な態度に由香はかすかな恐れを感じた。
由香はバスタオルを乱暴にスイミングバッグに突っ込むと、大股で歩いて奏に詰め寄った。
「さっきから何にらんでるんだよ!」
由香はいきなり平手打ちをくわせた。
奏はひっぱたかれてもひるまず、由香から視線をそらそうとしなかった。
「これで満足?」
奏が低い声で言った。
「満足なわけねーだろ、このバカ女!」
もう一度ひっぱたいた。
奏は、ぶたれて赤くなった頬を手のひらで押さえ、目には涙を浮かべていたが、由香を怖がる様子は見せない。むしろ、余裕すら感じさせる態度だった。追い詰められているのは由香の方だ。
「天音さんには申し訳ないと思ってる。本心からそう思ってるよ。あなたが腹を立てるのは当然だし、それでわたしに当たるのは当然だ。けれど、あなたが武一くんにフラれたのも当然のなりゆきよ。だって、あなたは武一くんにふさわしくないもの」
「なんだと!? もういっぺん言ってみろ。お前が武一を色仕掛けでかすめとったんじゃないか。お前さえいなけりゃ――」
「同じよ。武一くんにはあなたみたいな人は似合わない。わたしが転校してこなかったとしても、武一くんの心はあなたから離れていたわよ。だいたいなによ、色仕掛け? それって、あなたのことでしょ?」
由香の顔が真っ赤になった。奏は由香がひるんだのを見逃さず、憐れみのこもった表情で、あざけるように笑った。
「武一くんね、わたしと一緒にいるとホッとするんだって言ってくれた。いまならわかる。天音さんは武一くんにとっては疲れる相手だったのね。わがままで、見栄っ張りで、男の子を縛るタイプだもの。武一くんのいちばん嫌いなタイプよ。わからないの? 天音さんは彼をずっと苦しめていたのよ」
[失恋パンチ]
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