ビル群の向こうに夕日が消えていく。西の空は鮮やかなオレンジ色で、藍色の空は急速に濃さを増していく。いくつか星が見え始め、都会の夜景が自己主張を始める。空の色はどんどん変わっていき、やがてあたりは仄暗くなった。
あたしはずっとうずくまって、波の音を聞いていた。
家族連れはいなくなり、カップルや大学生らしいグループがまばらにいるだけになった。あたしを気に留める人はいない。まるで自分が幽霊になったように感じた。いるのに誰にも見えていないような。きょうに限ってナンパしてくる奴さえいない。
さみしくて体がうずく。
「誰かにレイプされたい……。誰かあたしをメチャクチャにしてよ……。うう……」
嗚咽が漏れそうになるのを歯を食いしばって我慢した。胸が苦しい。
もう何時間たっただろうか。
不意に背後で足音がした。ビクッとして振り向くと、レザージャケットを着た細身の男が立っていた。泣きそうな気持ちを抑えて何とか笑顔を作った。
「よかった……。来てくれないかと思ったよ、ショウマ」
「お前は呪いでもかけられたような顔をしているぞ、沙希」
急に呼び出したからなのか、すこし不機嫌そうだ。
あたしはポシェットを掲げた。
「あした誕生日なんだ。ここに百万ある。このお金で月曜の朝まで、あんたを買いたい」
ショウマはすこし考えてから、
「あいにく、お前と違って俺はその種のサービスはやっていない。誕生日を祝ってほしいならほかの奴を呼べばいいだろう。梨沙とかな」
「祝ってほしいわけじゃない。ショウマはボロボロだった頃のあたしを知ってる。一緒にいてほしいんだ。ほかの誰にも頼めない。あんたしかいないんだ。お願いだよ」
必死に懇願する声が震えた。
ショウマはすこしも表情を変えず、あたしの言ったことを吟味している様子だったけど、やがて「一緒に来い。カネはいらん」とだけ言って、来たのと同じ方向に歩きだした。
あわてて後を追った。コルベットの助手席に乗せてもらい、車が走り出しても、ショウマは何も訊かなかった。
「ごめんね。ショウマが来てくれてうれしかった。ありがとう」
「お前の立場で俺に気兼ねする必要はない。お前は俺のマスターピースだ。それに、確かにお前には問題が起きているようだ」
ギアがキィキィ軋んでいるから油を差してやろうというような、そっけない言い方だ。
嫌な気持ちじゃない。こいつはこういう言い方しかできないだけだ。この男は少女を開発するのが趣味なんだ。ショウマにとってのあたしは、画家にとってのアート作品か、でなきゃ酪農家が子牛を育てるようなものだ。あたしは出荷済の生きたラブドール。メンテナンスが必要になって返品されてきたんだ。
だから故障の原因を話さないといけない。
ショウマは何も訊いてくれないから。
「あのさ……」
一年前の誕生日、お母さんがバースデーケーキを買ってきた。4号サイズの小さいホールケーキだったけど、白い生クリームの上にイチゴがたくさん載っていて、『おたんじょうびおめでとう』と書かれたホワイトチョコのプレートがついていた。
お母さんが「きょうは沙希の誕生日だから」と言いかけたとたん、あたしは叫び声をあげて、両手でケーキを引きちぎってお母さんに投げつけ、料理の載ったテーブルをひっくり返して、自分の部屋に閉じこもって内側から鍵をかけ、一晩中泣きつづけた。
十一歳の誕生日にあたしが何をされたのか、お母さんは知っている。
知らない男をお父さんが連れてきてあたしを強姦させたのを知っている。
お父さんがそれをビデオに撮りながらハッピーバースデーを歌っていたのを知っている。
あたしが二度と誕生日を祝えないのをわかっているくせに。
『あんたさえ生まれてこなければ――』
いまでもそう思っているくせに。
いつまでたっても、生まれてきたことを許してもらえない。
ずっと憎まれつづけているんだ。
打ち明けおわると、急にこみあげてくるものがあった。こらえようとしても、唇が震えた。大粒の涙がこぼれ、ほっぺたを伝ってしたたり落ちた。胸にあいた大きな穴を風が吹き抜けていくような感じ。
「うう……、うぐ……、ふぐっ……」
声が出てしまうともう止められなかった。あたしは声をあげて泣き出した。幼い迷子が母親を呼ぶように大声で泣いた。
ショウマは黙ったまま、あたしが泣くのにまかせた。取り乱したりしないし、慰めようともしない。それがありがたかった。
泣きつづけてすこし気持ちが落ち着いてきた頃、ショウマの家についた。大使館があつまる高台に建つ一軒家。ショウマはその庭にコルベットを無造作に停車させた。ひとりで住むには広すぎる洒落た家。灯りはついていない。きょうは家政婦さんもいないようだ。
[援交ダイアリー]
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