父親を亡くしてから移り住んだ2Kのアパートは、何度か泊まりにいった真琴の自室より狭かった。そのことを嘆いたことはない。多少の苦労はあっても、家族は仲がよく、互いにささえあって楽しく生活しているのだ。少しもうらやましさを感じないかと言われれば、もちろんそんなことはないのだけれど、運命を呪ったりはしなかった。
それなのに。
(真琴……)
確かに真琴は美人だ。特にあのさらさらした長い黒髪。操は自分のくせ毛に強いコンプレックスを感じていたので、真琴の髪にあこがれていた。操は自分がたいして美人ではないと思うほど嫌味な性格ではなかったが、美少女には美少女なりの容姿についての悩みがあるものだ。
真琴が数学のテストで満点を取ったことを思い出した。総合成績では操も学年でいつも十位以内に入っているほどだが、数学以外では真琴には勝てなかった。それがいまでは数学でも追いつかれた。
真琴ならどこでも好きな大学に行けるだろう。操は大学に行くつもりはなかったけれど、それは望んでも無理だからで、大学に全然興味がないわけではなかった。
操が真琴に勝てるのはもはやバストの大きさくらいのもので、それさえも……。
『やっぱり女の子は胸が小振りなほうがいいな、って』
中学を卒業するまでは胸が大きいことを気に病んでいた。そのことで男子にさんざんからかわれたし、女子からは男に揉ませているんだろうとまで陰口をたたかれた。豊かな乳房が武器だと思えるようになったのは最近のことだ。矢萩は操の胸が好きなのだとばかり思っていたのに、それは勘違いだったのだろうか。
操が悶々として眠れないでいるあいだ、真琴は矢萩とメールのやりとりをしていたのかもしれない。恋愛巧者の真琴が矢萩の心に入り込むことなど造作もないことなのかもしれない。
男性と付き合うのは矢萩が初めての操が、手探りで苦労しながらようやく矢萩の気持ちを手に入れたというのに。
操が欲しいと思うものを、真琴は全部持っているように思えてきた。その上、操が持っていたささやかな居場所までも、真琴が侵略してきているように感じられた。
いままで真琴に嫉妬を感じたことなどなかったのに。
もしも先生があたしを捨てて真琴と付き合うことになったら……。
(そのときは……)
玉子焼きを切り分けていた操は、いつのまにか握りしめた包丁を見つめたまま立ちすくんでいる自分に気づいた。包丁の刃に鈍くぼやけた操の顔が映っていた。
そのときは……?
(いやいやいやいやいやいや、なに考えてんだ、あたし。刃傷沙汰なんて、そんなの、ありえないから)
我に返った操は、ふっと息を漏らすと、自分の愚かさに苦笑した。
確かに殺意を覚えた。
いま自分は嫉妬の迷路に迷い込んでいたのだ、と思った。
危なかった。でも、もう大丈夫だ。もう妙なことは考えまい。くよくよ考えていても解決しない。だから……。
(だから、真琴に全部打ち明けよう)
真琴は操と矢萩が付き合っていることを知らないのだ。だから、まずそれを説明しなければいけない。
それでも真琴が矢萩をあきらめないというなら戦えばいい。そうなれば親友を失うことになるが、黙っていれば親友と恋人の両方を失うのだ。
それから矢萩にも問いたださなければならない。自分のことをどう思っているのか、真琴のことはどうなのか、ちゃんと本人に確かめるのだ。
操は深呼吸した。世界に色が戻ってきたような気がした。
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