第7話 恋の家庭教師 (06)
階段を下りて客間に戻る。松田夫人が待っていた。上着とコートを着て夫人に向き直った。
「息子さんに女を教えてほしいという依頼をお受けします。いまのところ彼にはその気がなさそうですから、すこしお時間をいただくことになりそうですけど」
「おおっ、ありがとうございます!」
不安そうだった松田夫人の顔がパッと明るくなった。すっかり息子がホモだと信じてしまっているらしい。
松田邸をあとにしたあたしは、駅までの道すがら、快斗くんとのやりとりを思い返してみた。
あの数学の問題の解き方はあれでよかったのかな。移動距離を微分すると速度になり、速度を積分すると移動距離になる、という話を前に聞いたことがある。物理学者で大学で教えている田辺先生のピロートークでだ。実際には微分積分なんてわかんないんだけど。ハッタリでも、問題の考え方としては合ってるはずだ。快斗くんがあたしに一目置いてくれれば、次に進める。
快斗くんはあたしのことを、ちょっとがんばればヤラせてくれそうな女だと思っただろうな。キスもセックスもダメと言われたことで、かえって安心感を覚えたはずだ。その一方で男の子の狩猟本能も刺激されたにちがいない。加えて、最後に見せた涙の効果は大きかった。ヤリマンと思っていたのに意外にピュアなところがあると知って戸惑っただろう。実はぜんぶ演技だったなどとはつゆほども思うまい。
あとは快斗くんに女性に対する自信をつけさせてあげればいい。
問題があるとすれば、土壇場で快斗くんの理性が勝ってしまう原因になった『好きな子がいる』ってことだけど……。まあ、男は好きな女がいるからって目の前の誘惑には勝てないものだ。
うむ。仕込みは上々。
どっちにしても、これはおもしろくて興味をそそられる依頼だ。楽しむしかないよ。
それから数日たった日の放課後――。
あたしは快斗くんの通う塾の前で、彼が出てくるのを待った。チャコールグレーのブレザー制服の上にネイビーのピーコートを羽織り、赤系チェックのミニスカに紺のハイソックス。派手さはないけどそこそこ目立つ制服ファッションだ。
授業が終わって、さまざまな学校の制服を着た生徒たちが建物から出てきた。生徒たちはすぐに帰ろうとはせず、玄関前にたむろしている。その中にぼんやり立っている快斗くんの姿はすぐに見つかった。
「お疲れさま、快斗くん」
あたしがにこやかに声をかけると、快斗くんは怪訝な顔をした。
「あたしあたし。沙希先生」
黒縁の伊達メガネをかけて笑顔をみせると、ようやくあたしが誰だかわかったようだ。あせった態度であたしの着ているものをじろじろ見て、
「あんた、高校生だったのかよ!」
「えへへ。ゴメンネ。実は高校一年生なんだ」
「どういうことだよ。ていうか、このあいだのあれは何だ。何しに俺の家に来たんだよ。あんな男を誘うようなことをして、俺に襲われたらどうするつもりだったんだ」
「またまたぁ。女の子に襲いかかるような度胸ないくせに。それにきみのお母さんに性教育の家庭教師を頼まれたのは本当だよ。あの問題が解けたら家庭教師として認めてくれるって言ったよね。ちゃんと解けてたでしょ?」
「むぐっ。たしかに有川先生も『まさか解けるとは思わなかった』って言っていたよ。あんた、どこの高校だ。高一でそんなに勉強できるのに、どうして性教育のバイトなんてするんだよ。これじゃ、まるで援助交際じゃないか」
あたしは居心地の悪そうな笑顔をかすかに浮かべてみせた。
「おい、まさか本当にやってるんじゃないだろうな」
「どうだっていいじゃん、そんなこと。お母さんに頼まれたのは、きみが年相応に女の子に興味を持てるようにしてほしいってことだけ。なによ、あたしみたいな美少女とエッチできるかもって期待しちゃった?」
「んなわけあるか! そういう話なら、もう俺につきまとうことないだろ。好きな子がいるって打ち明けたんだから」
「どうせ話しかけることもできずに遠くからただ見てるだけなんでしょ? いっそあたしに乗り換えてみたら? こんなカワイイ子と知り合えるチャンスなんて、もう二度とないかもよ」
「ほっといてくれよ。それに俺はまじめで清純な子がタイプなの。あんたみたいなのじゃなく」
「快斗くんの好きな子って、あそこにいる髪の長い子でしょ?」
あたしは十メートルほど離れたところで数人の友達と談笑している美少女を指さして言った。すると快斗くんはとうがらしを食べたように顔を真っ赤にして、汗を噴きだした。
「どうして分かった!? あんた、ホナミさんの知り合いか? それともエスパーか」
観察と推理でわかっちゃうのだよ。
[援交ダイアリー]
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