第5話 死に至る病 (06)

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店員さんがオーダーを取りにきた。あたしが顔をあげようとしないので、ギリさんがオムライスをふたつ注文した。そのオムライスが運ばれてくるまで、あたしたちはどちらも口を開こうとしなかった。

デミグラスソースのかかった半熟ふわとろオムライスが、あたしの前に置かれた。スプーンですくって一口食べた。たぶん、おいしいのだろう。そのまま食べつづけた。悲しかった。結局この世界には絶望しかないんだ。

「いいですよ、レイプされても。そーゆーの慣れっこですから。どうせ、あたしは男のおもちゃにされて捨てられるだけの価値しかないです。生きてる価値なんてないもん」

「沙希ちゃん、それは違うよ! 死にたいなんて言っちゃダメだ。誰だって死にたくなるほどつらいことはある。でも頑張らなきゃ。生きていればいいことだってきっとある」

「いいことって何ですか?」

あたしはスプーンを持ったままギリさんをにらみつけた。メールでのギリさんはもっと優しい言葉をかけてくれた。いまギリさんが言ったのは、心を病んでる子に言っちゃいけない言葉だ。ギリさんはもうあたしのことを親身に考えてくれてない。あたりまえだ。狙ってた女の子をこうして釣り上げるのに成功したんだから。

「ごめん、沙希ちゃん。いまのは無神経だった」

ギリさんは自分の左手を見つめて、大きく息を吐き出した。それから絆創膏を剥がしはじめた。まるでかさぶたを剥がすかのように、苦痛に満ちた表情を見せた。

「沙希ちゃんが言ったように、ぼくは結婚している。十歳になる娘がひとりいるよ。たしかにこの絆創膏は指輪のあとを隠すためだ。でも、それは結婚していることを隠してきみに近づくためじゃない。隠しているのは――、深くえぐられた心の傷痕だ」

ギリさんの薬指の根本にリング状の凹みが現れた。ギリさんがあまりに苦しそうなので、あたしは理由を訊かずにはいられなかった。ギリさんは目頭を指でこすって、

「妻はほかの男と不倫をしていたんだよ」

「だから自分も浮気してやろうと思ったんですか?」

「違う! そりゃ、きみのような美少女を前にして性的な妄想をすこしもかきたてられなかったと言えばウソになる。でも、きみの力になりたいと思っているのは本当だ」

ギリさんは大きくため息をついた。

「妻を問い詰めると、結婚直前までソープで働いていたことを打ち明けられた。目の前が真っ暗になったよ。ぼくはそうとは知らずにソープ嬢と結婚してしまったんだ。しかも、娘だと思っていた子はぼくの子じゃなかった。まだ離婚はしていないが、しばらく前から家族とは別居している。毎晩、ぼくは死にたくなる。妻のことを憎むことができたらどれほど気が楽だろう。憎むべきなのかもしれない。でも、ぼくはまだ妻を愛する気持ちをなくすことができない。まったくバカな男だよ」

この話にあたしはショックを受けた。たぶん目を見開いてギリさんの話に聞き入っていただろう。ギリさんはあたしのお父さんと同じ境遇なんだ。あたしはギリさんを疑った自分を恥じた。

「いや、ぼくのことはいいんだ。ぼくは大人だし、ひとりでも頑張れる。でも、きみは違う。誰かの助けが必要だ。沙希ちゃんは繊細で純粋な女の子なんだと思う。それ故に傷つきやすい。ぼくは沙希ちゃんの力になりたい。ぼくにできることはないだろうか?」

ギリさんの口調は真剣だった。あったかい言葉だった。

この人がどれほど苦しんでいるのか、あたしにはわかる。お父さんがどれほど苦しんだのか見て知ってるから。

この人にめぐり合ったのはきっと運命だ。あたしは運命を信じてる。たいていの場合、あきらめて飲み込まれるか、あらがって押し流されるかでしかない。でも、ごくたまに、それ以外にないという形で歯車が噛み合うときがある。

あたしはこの人の力になりたい。

「ギリさんはさっき、『生きていればいいことだってある』って言いました。信じていた奥さんに裏切られたのに、いままでいいことなんてありましたか?」

「沙希ちゃんに出会えたよ。きみがぼくを必要としてくれるならうれしい」

ギリさんはそう言って微笑んだ。苦しくてたまらないはずなのに。それでもあたしを助けようとしてくれてる。会えたのがこの人でよかった。

「あたしは、あたしの話を聞いてほしいです」

落ち着いてゆっくり話したいから今夜は泊めて欲しいとお願いした。奥さんと別居していると言ってたけど、この近くに家具付きアパートを借りているそうだ。はじめのうちギリさんはためらった。あたしの家は母子家庭でお母さんはあたしが何をしようが気にしない、それよりギリさんといっしょにいたい、と訴えた。

「放任じゃなくてネグレクトなんですよ。それに時間が遅くなると夜道は怖いです。襲われるかもしれない。でも、離婚調停のときに不利になっちゃいますか? あたしに対してエッチな妄想をするって、さっき言ってましたし」

あたしが本気とも冗談ともとれる口調でからかうと、ギリさんはしぶしぶ承知した。

「わかったよ、沙希ちゃん。泊まっていっていい。でも明日の朝、学校にはちゃんと行くこと。それにぼくはきみに淫らな行為はしない。きみは魅力的な女の子だが、大人として責任ある行動をとると約束する。だから安心してほしい」

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