田中さんと呼ばれた大男があたしの逃げ道をふさいだ。生意気な態度を取ったことが松田夫人の気にさわったのか。この人からすれば、あたしは夫をたぶらかそうとした底辺庶民の小娘だ。一般社会では許されないような暴力的なお灸をすえてやろうと考えてるのかも。もっとも、夫人はそういうタイプではなさそうに見えるけど……。
ポケットの中のとうがらしスプレーを使えば大男を振り切れる可能性はある。でも、もし松田夫人が夫との離婚を考えていたとしたら、あたしが逃げたら本当に警察に通報するかもしれない。
どうすればいいのか。あたしは口の中がカラカラになっていた。
「奥さん、誘拐や監禁ということになれば、これはもう立派な犯罪です。それこそ警察沙汰は免れないですよ」
声が震えてこそいなかったけど、緊張は隠し切れなかった。
あたしの不安を感じ取ったのか、夫人は満足そうに目を細めた。
「そんなに怯える必要はありませんよ。悪いようにはしません。あなたにお願いしたいことがあるのです」
夫人がそう言うと、大男があたしを車の方へうながした。いかにもな黒塗りのセダンだ。小男で初老の運転手が後部座席のドアを開けて待っていた。
ついていくしかなさそうだ。夫人が先に乗り、ついであたしが乗り込むと、ドアをふさぐ岩のように田中さんが乗ってきた。夫人が「出しなさい」と運転手に命じ、車は枯れ木のように立ちすくむ松田さんを置いてけぼりにして、走りだした。
車は首都高に乗ると湾岸線を西へと向かった。誰もしゃべろうとせず、あたしも黙っているしかなかった。拉致監禁されたことは以前にもある。暴力が目的なら『お願いしたいことがある』などとわざわざ言う必要はない。ただし、断った場合はどうなるかわからないけど。
こうして連れて行かれたのは、高級住宅街の一角にある家だった。注文住宅のCMに出てくるような三階建だ。モダンなデザインで、大きいけれど『屋敷』という風情じゃない。どうやら松田夫人は少々見栄っ張りなところがあるらしかった。
客間に通されたあたしに、田中さんがお茶をいれてくれた。
「田中さんは松田夫人の懐刀っていうか、用心棒なんですか?」
「わたしは病院の事務長ですよ。奥様はすぐにいらっしゃいます」
あたしがおそるおそる尋ねると田中さんは初めて笑顔を浮かべた。
田中さんが部屋を出て行くのと入れ替わりに松田夫人が入ってきた。手に雑誌大の紙袋を持っている。
夫人はテーブルの向かいの席に座ると、すぐに口を開いた。
「沙希さんはお金さえもらえば誰とでも性行為をするのでしょう?」
「そんなことありません」
話の方向が見えないので、あたしはうつむき加減で慎重に答えた。
「あたしは売春婦ではありません。あたしがセックスする相手は、この人なら身を任せてもいいと思える人だけです。そりゃ、お金はもらいますけど、お金で誰とでもセックスするわけじゃないです」
「わたしの主人には身を任せてもいいと思ったのかしら?」
「あたしは……松田さんの力になりたかったんです。男性は自分に自信を持てるようにならないと生きていけないんです。あたしはその手助けができると思いました。そのかわりに、お金とやさしさを分けて欲しかったんです。でも、夫婦仲を壊すつもりはなかったです。ご主人だって、あたしのことはただの遊びだったんです」
夫人はあたしの言ったことを吟味するように間を置くと、
「まあ、そのことはもういいわ。あなたに来てもらったのは別の用事です」
と言いながら、紙袋から封筒を取り出した。さっき松田さんからもらってまた返した三十万円が入ってるやつだ。
「わたしには高校二年の息子がひとりいます。来年は大学の医学部に進学して、いずれはうちの病院を継ぐことになります」
「……」
「このお金で息子と性行為をしてやってほしいのです」
こーゆーことをする母親がいるという話は聞いたことがある。息子を甘やかして何でも好きなものを買い与え、しまいにはおもちゃと同じ感覚で女まで買ってやるんだ。だけど、あたしだってマザコン少年のおもちゃにされるのなんてまっぴらだ。
「受験を控えた息子さんが勉強に集中できるよう、あたしに性処理をしてほしいということですか? さっきも申しましたけれど、セックスの道具としてお金で買われるのはイヤです」
「あなたを警察に突き出してもいいのですよ?」
あたしは唇を噛んだ。かなり不利な状況だ。松田さんは大した罪には問われないだろうし、夫人に離婚する気がないなら経済基盤を失うこともない。どちらにしても夫人に損害はほとんどない。でも、あたしは退学になるだろう。児童自立支援施設に入れられるかもしれない。
だからといって、このまま脅されて言いなりになるなんてガマンできない。
[援交ダイアリー]
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