そこで、あたしも話があるのでいまから部屋に行く、と返信した。謝罪を受け入れた上で、十万円を返すつもりだった。
シュシュでポニーテールにし、ジーンズにブルゾンで出かけた。この服装は、もうエッチなことはしないという意思表示だ。
ところが、田辺さんのアパートに行ってみると、留守だった。どういうつもりだ、と不愉快に思ったけど、ここで引き返しても意味がない。しばらく待たされるのを覚悟して、ドアにもたれて座り込むと、ケータイを取り出してメールした。
送信して数秒すると、すぐそばで着信音が鳴った。
顔を上げると、デブの本多が通路に立っていた。ケータイの画面を見ながら、ニタニタ笑っている。
「また会ったね、沙希ちゃん。『いま部屋の前。いないってどういうこと? 忙しいんだから早く戻ってきて』か。ふーん、田辺先生は留守なんだ」
ちくしょう、そういうことか!
たったいま田辺さんに送ったメールをこのデブが受信した。きのうと同じだ。ニセのメールでおびきだされた。迂闊だった。考えてみればきのう田辺さんは本多のケータイを使ってあたしにメールしてきたんだから、田辺さんのケータイにはあたしのメアドは記録されていない。田辺さんがあたしにメールできるはずがなかったんだ。
「ぐっふっふっ、二度も同じ手に引っかかるなんて、沙希ちゃんはバカだなぁ。きょうはぼくの家に来てもらうよ。いやだと言ってもダメだからね」
そう言うと、デブが突進してきた。あたしは跳ね起きると、本多に背を向けて逃げようとした。しかし、遅かった。うしろから抱きつかれ、ガムテープで口をふさがれた。脚をバタバタさせたけど逃げられない。助けを呼ぶこともできない。
あたしは通路に腹ばいにさせられ、本多が馬乗りになった。
動きを封じられたけど、ケータイは手に持ったままだ。メールなら打てる。
でも誰に? 田辺さんのメアドは知らない。援交用のケータイに友だちのメアドは登録してない。
「沙希ちゃんにはぼくのセックス奴隷になってもらうよ」
本多があたしの顔の前にちいさな缶を置いた。煙が出ている。気持ちの悪くなるような異臭に反射的に息を止めた。恐怖で顔が引きつった。毒ガスを連想したけど、死姦趣味でもなければここで殺すはずがない。でも、あたしにはもう時間はなさそうだ。
『ほんだ ばなな たすけて』
件名は、『田辺せんせい』。
宛先は――。田辺さんにつながる細い細い糸。望みはほとんどない。けれど、いま覚えているメアドはこれだけだ。
息を止めているのも限界に達し、あたしは鼻からガスを吸い込んだ。
そのとたん、後頭部を殴られたような衝撃を感じた。視界が溶けた。真っ赤な雲の中をどこかに向かって猛烈な勢いで落ちていく。小学生のときに見えていたお化けがあたしにまとわりついてくる。時間も空間もなく、あたしは世界と溶け合っていく。
中学校で集団レイプされた時に味わった恐怖。その恐怖を精錬して純度を極限まで高めたような、人間が感じることのできる限界を振り切った絶望と孤独。
世界は絶望そのものなんだと悟った。
永遠に終わることのない絶望の中で、あたし自身が絶望と化した――。
そして目覚めは唐突にやってきた。
カーテンを閉めきった薄暗い部屋のベッドの上だった。
生きている……。
幻覚剤を使われたんだ。心臓がバクバクする。全身に汗が噴きだした。
どれくらい幻覚の中にいたんだろう。
服は着たままだ。口のガムテープははがされていた。でも、手足には拘束具を付けられている。長いロープでベッドの四隅につながれているらしい。
これまで生きてきた日常の世界から切り離されてしまったような不安を感じた。
突然明かりがつけられ、あたしはまぶしさに目を細めた。部屋の中は本で埋まっていた。ラックに収まりきらない本は床に積まれている。何もない田辺さんの部屋とは対照的だった。マニアなんだろう。翻訳もののミステリやSFがほとんどだ。見たところ、エロ本のたぐいは一切ない。それが返って本多の変態性を表していた。
本多はベッドの脇であたしを見下ろしていた。全裸だ。目が合うと、本多はぶよぶよした肉を揺らしながら大笑いした。
「こ、こんなことしてただで済むと思ってるの?」
気丈にふるまったつもりだけど、声の震えは抑えられない。
「言っとくけど、この部屋は防音になってるから、大声出しても無駄だよ。ああ、でも沙希ちゃんみたいな美少女が泣き叫ぶところも見てみたいな。ぼくのようなキモデブにレイプされたら悲鳴をあげちゃうよね。ぐっふっふっ」
本多はあたしを押さえつけると、大きなハサミを使って、あたしの着ているものを切り刻みはじめた。
「きゃあああっっ! やめて! 誰かっ、誰か助けて!」
[援交ダイアリー]
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