脱がせ鬼(01)
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これは、いまから五年前、わたしが実際に体験した出来事です。
ひと気のない深夜の住宅街、わたしは家路を急いでいました。初夏のことで風もなく、街には昼間の熱が残っていました。ノースリーブのブラウス、素足にタイトスカート。なま暖かい空気が肌にまとわりつく感じがすこし不快でした。
すでに真夜中を過ぎていましたけれど、街灯も多く治安のいい地域です。女性がひとりで歩いていても不安は感じませんでした。まわりの家々もすっかり寝静まっています。暗い夜道で聞こえるのは、わたしが歩くヒールサンダルのたてる音だけ。
そのとき電話がかかってきました。夜を引き裂くような呼び出し音に驚いて、バッグからスマホを取り出しました。前の派遣先でできた友人からでした。
たいした話ではありませんでした。合コンから帰ってきたところだそうで、いい男がいなかったとボヤきを聞かされただけです。
『あんたは例の既彼とはその後どうなの?』
と話を振られたので、
「どうもなってないけど、きょうは仕事のあと、同じ職場の人とデートだったんだ。四十代、既婚。やっぱり職場が同じだとトキメキが段違い。さっきまでラブホで燃え上がってた。いま家に帰る途中なんだ」
と答えました。
すると友人がかすかにうめくような声をあげました。
当時、わたしはすこし精神的に不安定になっていて、同時に何人もの男性と不倫をしていました。心療内科にも通っていて、性依存症と診断されていたくらいです。友人もそのことは知っていました。彼女もセックスには奔放だったこともあって、わたしの不倫癖をとがめたりはしません。友人が注意したのは別のことです。
『もしかして、いま夜道をひとりで歩いてたりしない? 女は危ないよ』
「大丈夫だよ、いつも歩いてる道だし」
『そうじゃなくてさ。さっき合コンで会った子から怖い話を聞いたんだけど。脱がせ鬼って聞いたことある?』
「ヌガセオニ……? 脱がせる鬼?」
『そうそう。その子が先輩から聞いたって話なんだけど、ひと気のない場所を夜中に女性がひとりで歩いてると、出るんだって』
「その、脱がせ鬼、ってやつが?」
新手の変質者の話かと思いました。一応、わたしは防犯スプレーを携帯していますが、いま歩いている住宅街はそうした犯罪が起きそうな場所ではありません。
『笑い事じゃないよ。なんでも、真っ黒で、手が何十本もある妖怪で、丸い頭に燃えるような真っ赤なまんまるの目が光ってて、口はV字型に裂けてて、空中をすべるように猛スピードで襲いかかってくるんだって』
「妖怪? 怪しいなぁ。友だちが知り合いから聞いた話なんだけどってヤツでしょ。都市伝説っぽいヤツ?」
『いや、マジなんだって。その先輩って子が見たんだって。そいつは女性に襲いかかって、無理やり衣服を剥ぎ取って、ブラジャーとパンツを奪い取っていくのよ』
「やっぱり変質者じゃん」
『それでね、もし女性がブラジャーを着けてなくてパンツも穿いてなかったら、脱がせ鬼はまだ服を着てるんだと思いこんで、さらに脱がそうとするの。でももう全裸にされてるから脱がす服はないわけよ。そうすると脱がせ鬼は皮膚をひん剥いて、内蔵を掻き出して、パンツを探し回るの。ぱんつぅ、ぱんつぅ、ってつぶやきながらね。女性は体をバラバラにされて死ぬんだけど、けっきょくパンツは見つからないから、しかたなく脱がせ鬼はシクシク泣きながら去っていくんだって。その先輩は下着を盗られただけで済んだけど、もう何人も襲われてて、死人もたくさん出てるんだって』
「そんなに死者が出てるなら大ニュースになってるはずでしょ」
『政府がパニックを恐れて隠蔽してるのよ。あまりに死体がむごたらしい状態だから。その先輩はたまたま警察関係の仕事をしてて……、あ、だからこの話は本当はあんたに教えちゃいけないんだけど』
「あんたの友だちが合コンで言いふらしてたなら、もう手遅れじゃん」
『そうだけど、あんたが夜道をひとりで歩いてるっていうから心配になって。不倫相手と会ってたっていうし、ノーブラじゃないでしょうね』
ノーブラでした。
『ったく、そんなことじゃないかと思ったよ。でね、その人が襲われた話を警察関係の人に言ったら、脱がせ鬼を追い払う方法っていうか呪文を教えてもらったんだって。政府に協力してる何千年もつづく陰陽師の家系の人がいてね』
「話がどんどんオーバーになっていくね。それでその呪文とやらをわたしに教えてくれようってわけ?」
『いい、ちゃんと覚えておくのよ。呪文はこう。がんばり入道ホトトギス。わかった?』
「がんばり……、何だって?」
そのとき突然、頭上にあった街灯の光が、ろうそくが燃え尽きるようにスーッと暗くなったかと思うと、そのまま消えてしまいました。
思わず立ち止まりました。
すると、三十メートルほど離れたとなりの街灯も、フッと消えてしまいました。そのほかの街灯も次々に消えていきます。まるで、何か危険な獣が現れたのを感じて地面の穴にいっせいに身を隠す野ネズミたちのように。
不意に冬の訪れを思わせる冷気を帯びた風が吹いて、わたしの前髪を揺らしました。
全身に鳥肌が立つのを感じました。
手元でスマホの画面だけが不自然なほどのまぶしい光を放っていました。
『もしもし? ちょっと、聞いてんの? もし……たらいまの……もんをい……い……』
たったいままで話していた友人の声は途切れ途切れになり、スマホの画面も街灯と同じように暗くなっていきます。あわてて友人に呼びかけようとしましたが、スマホはシャットダウンしたように消えてしまいました。
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