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「お先に失礼しまーす」
誰かの声がフロアに響いた。雪村美琴はパソコンの画面を見つめたまま、
「お疲れ様でーす」
と、ぼんやりと答えた。
数秒後に照明の半分が消された。急にあたりが暗くなったことで美琴は我に返った。顔をあげると、誰が出て行ったのか、出入り口の扉が閉まるところだった。
見回してみたが、もうほかには誰も残っていないようだった。壁の時計を見ると、まだ八時前だ。金曜日でノー残業デーだということもあるのだろう。
派遣社員としてこの会社で働くようになってひと月ほどになる。専門学校を出てから最初の職場だった。広々としたフロアには五十人ほどが働いているが、空席が多いので、フロア自体はもっと広く感じられる。
そこにいまは美琴だけが取り残されていた。明かりは美琴のセクションのあたりだけにしか点いていない。
美琴は心細さを感じてため息をついた。しかし、すぐに気を取り直すと、エクセルの画面に視線を戻した。入力しなくちゃならないデータはまだ残っている。
「調子はどうだ?」
「ひぇ!?」
不意に背後から男性の声がして、美琴はびくんと体を震わせた。
「なにをそんなに驚いてるんだ。作業の進捗はどうなっている?」
美琴のすぐうしろに同じセクションで働いている本郷さんが立っていた。
「ほ、本郷さん。まだ残っていたんですか」
「雪村さんが残業するときは正社員の誰かが残っていなくちゃならないんだ。派遣のIDカードじゃ入り口のドアを施錠できないからな」
甘い響きのあるセクシーな声だ。けれど、いまは不機嫌さがにじんでいるようにも感じられた。自分の作業が遅いせいだ、と美琴は恐縮した。
「あ、あの……、すみません。あたしのために。もうすぐですから」
本郷さんは身をかがめて美琴のパソコンをのぞき込んだ。マウスを使って画面を上下にスクロールさせ、次にキーボードわきに置いてあった書類の束を持ち上げてぱらぱらとめくった。そして、フンッと鼻を鳴らすと、
「残り五十件ほどか。とすると、あと一時間くらいで終わるな」
と、つぶやいた。
「すみません。急いで終わらせます」
「いや、あせらなくていい。それより、正確に作業することを心がけるんだ」
本郷さんは素っ気なく言って、すこし離れた自分の席に戻っていった。
部署は同じだけれど、本郷さんとは担当している業務が違う。美琴の作業を指揮しているのは七歳年上の女性の正社員だ。きょうはデートがあるからと、美琴に仕事をまかせて帰ってしまったのだった。本郷さんにしてみれば貧乏クジを引かされた形だろう。
美琴は本郷さんのことをよくは知らなかった。三十代前半でチーフの立場にあり、精力的で仕事もできる。背の高い痩身のイケメンで、大股で歩く様子はいつも自信にあふれていた。もちろん女子社員のあいだでは人気があった。美琴もカッコイイ人だなと思っていた。しかし、年齢がひとまわり以上違うこともあって、これまで仕事以外のことであまり話したことはない。
美琴はキーボードを操作しながら、本郷さんの方に目をやった。
広いフロアで、美琴と本郷さんのいるあたりだけが照明に照らされている。まるで舞台の上でスポットライトをあてられているかのように感じられた。
――ふたりきりだ……。
そう思うと、急に本郷さんのことを意識しだしてしまった。
夜のオフィスでイケメン男性とふたりきり……。
緊張する。
意識しないようにとすればするほど、胸の鼓動が速くなる。
なんだか、ほっぺたが熱くなってきた。
なになに? どーしちゃったの、あたし。
「ふたりきりだね」
「ふぇ!?」
いつの間にか本郷さんがまたあたしの背後に立っています。
「いまここにいるのは俺と雪村さんだけだ、って言ったのさ」
さっきと違ってやさしい声音。本郷さんはあたしの肩にそっと両手を置きました。
どきんっとしました。
胸が痛くなるほど緊張してます。
「雪村さんはカワイイね。スタイルもいい。それでいて頭もいいし、まじめで仕事も速くて正確だ。きみのような子が来てくれて助かるよ。疲れただろ? すこし休憩しようか」
本郷さんがあたしの耳元に顔を近づけてささやきます。
いやーん、耳に息がかかってるよぉ。もしかして、これ、セクハラ?
「雪村さんはステキな香りがするなぁ。彼氏はいるの? 美人だからモテるだろ?」
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