こうしてあたしは死ぬのをやめにして、ふたりでギリさんのアパートに戻った。
お腹がぺこぺこだったので、とりあえずパンとハムとチーズで簡単な夕食をすませた。あたしが買っておいた食材はまだ残っていたけど、料理を作る気にはなれなかった。
ほんの短いあいだ、あたしとギリさんはこの部屋で同棲した。いまではもう思い出の彼方の話だ。
食べ終わったあと、お風呂に入らせてもらった。ゆっくりと時間をかけて全身を入念に洗い、湯船につかって体をあたためた。
お風呂を出て、バスタオルを体に巻いた姿のまま部屋に戻った。ベッドに座っていたギリさんが安心した表情を見せた。
「落ち着いたかい?」
「うん」
ギリさんのとなりに腰を下ろし、体をくっつけた。
ギリさんがそっとあたしの肩を抱いた。
この一週間、毎晩こうして寄り添い、好きだとささやきあいながら、セックスをした。
それはそれで楽しい毎日だった。
文化祭以来のつらい気持ちが、あたしをおかしくさせていたんだ。あたしはあたしであることを見失い、あたしらしさをなくしていた。
あたしは心を病んでいる。といってもこれは病気ではない。治療を受ければ治るというものではない。あたしの心は壊れていて、いまもひび割れが広がっていきつつある。あたしは障害を負っているのであって、これは一生治ることはないんだ。
そして、回復と悪化のスパイラルを繰り返し、すこしずつ本当の死へと向かっている。
言ってみれば、あたしの心は崖っぷちに立っている。すこしバランスを崩せば谷底に転落する。反対側も崖になっていて、ただしそっちは遥か上までのびた絶壁だ。あたしにはけっして上ることができない。上には平和で安心できる世界があって、拓ちゃんや恵梨香先輩が暮らしている。
できることなら崖の上の世界に行きたい。
短いあいだでいいから、お姫さまになりたい。
そのあとでなら、谷底に落ちてもかまわない。
それまでは――。
この狭い通路を歩いて行くしかないんだ。
先になにがあるかはわからない。途中で道がなくなっているかもしれない。
不安でたまらない。怖くてたまらない。
あたしが持っている唯一の希望は、セックスが好きだと思えることだ。
誰かとつながれることを、あたしはまだ信じてる。
誰かと愛し合えることを、あたしはまだ信じてる。
この一ヶ月、あたしはそれを見失っていた。
セックスがステキなものだということをギリさんは思い出させてくれた。
結局のところ、ギリさんはあたしを助けてくれたんだ。
本人がどういうつもりだったにせよ。
ただ、ギリさんはあたしの王子さまじゃなかった。あたしのような不幸な女の子に惹かれて、心を狂わせた運の悪いおじさんにすぎなかった。
だから、あたしはこの人を助けてあげよう。
「金曜だから今夜は家族のところへ帰るんでしょ? 初めて電話したとき、地方にいるからすぐには会えないって言ってたけど、あのとき奥さんのいる自宅だったんですね」
「帰るつもりだったけど、ぼくはきみと過ごす夜を選びたい」
あたしはコンドームのパッケージを差し出した。
「お金、払ってください。全額前払いでお願いします。あなたはやさしい人だからキスはしてもいいけど、ゴムは着けて」
「沙希ちゃん……?」
「単身赴任で、毎日アパートと職場の往復。家族と離れた単調な暮らしをしていたら、ちょっと刺激が欲しくなっちゃうのも当然です。女子高生とのセックスを思う存分楽しんだら、奥さんのところに帰ってあげなよ。きっと待ってるよ」
ギリさんは小さくため息をついた。
「ぼくたちはただの援助交際をしていたことになるのか……」
あたしは黙って微笑んだ。
いまなら崖の上の平和な世界に戻れるよ。だから、あなたのために祈ります。
第5話 おわり
[援交ダイアリー]
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