第9話 すべての呪いが生まれた日 (10)
そこであたしは勢いよく立ち上がると、すごい名案を思いついたという仕草で、
「ねえ、おじさん、何もすることないなら、いまからあたしと遊ぼうよ。一日中こんなところに座り込んでたら、この樹みたいに根っこが生えちゃうよ。どうせ暇なんでしょ。あたし、もっと桜がたくさん咲いてるところに行きたい」
沢渡さんは何を言われているのかわからないという顔から、やがて目に生気がやどった。でも迷ってる。
「でもなぁ……」
「おじさん、先週会社をリストラされたんでしょ? それを家族に打ち明けられなくて、毎朝会社に行ってくると言って家を出ては、ここに座り込んで夕方まで鬱々としてたんだよね。ここっておじさんの職場から離れているから会社の人にも見られなくて済むし」
あたしの言葉に沢渡さんはぽかんと口を開けた。
「どうして……。きみはいったい……」
「うずくまってじっとしてるだけじゃ腐っちゃうよ。おじさんはとりあえず気分転換した方がいいと思うな」
あたしはあたしにできる一番の笑顔を作って右手を差し出した。
「だから、あたしと一緒に冒険してみようよ。ね?」
沢渡さんはまだ逡巡している様子だったけど、恐る恐る手を伸ばすと、あたしの手を取った。その手を引っ張って立たせる。沢渡さんはズボンのお尻をはたいて、弱々しく笑った。さあ、ワンダーランドへ出発しよう。
あたしたちは駅のコンコースを抜けて線路をはさんだ反対側に出た。こっちの方に桜の公園があるんだよ、といって誘ったんだけど、それじゃさっきまでいた広場と代わり映えしない。気分を大きく変えてあげるためには、最初は水族館だ。駅のすぐ近くに水族館があるので、それとなくそちらに歩いていき、その前で初めて見る建物を見上げるようにして立ち止まった。入り口が大きな洞穴のように口を開けている。
「おじさん、これって何かな?」
「アクアパークって書いてあるね。水族館かな」
「水族館!? あたし、水族館って大好き! 入ってみたい」
と、目を輝かせて言った。沢渡さんはちょっとたじろいだ様子で、
「そうか。じゃ、じゃあ、入ってみる?」
「うん!」
あたしは満面の笑顔を浮かべてみせた。あたしが喜んでいる様子を見て、沢渡さんもうれしそうな微笑みを浮かべた。
この水族館は何度もデートで来たことがある。沢渡さんは駅のこちら側はよく知らないようだ。たぶん仕事で向こう側のオフィス街に何度か来たことがある程度なんだろう。
入場したらまずイベントスケジュールを確認。イルカショーまでかなり時間がある。ここはやはりクラゲからだな。疲れているおじさんはクラゲが気に入るものだ。
思ったとおり、沢渡さんはクラゲに見とれていた。暗がりに円筒状の水槽がいくつも並び、その中に小さなクラゲが無数にただよっている。神秘的で荘厳な感じの音楽に合わせて、星あかりのような照明が青から赤、紫から緑へと色を変えていく。その光を受けて、ゆっくりと傘を閉じたり開いたりして泳ぐクラゲがきらきらと光って見えた。
あたしは沢渡さんと手をつないで、同じようにクラゲの群れを見つめた。ふたりとも黙ったまま。いつまでもこうしていられるような気がした。クラゲには自律神経を整えるヒーリング効果があるそうだ。あたしの心も癒やしてくれてるのかな。
そのままずいぶん長い時間が過ぎたような気がした。名残惜しくはあるけれど、ずっとこのままというわけにもいかない。
沢渡さんの手をきゅっと握って、淋しげな笑みで見上げると、沢渡さんも笑って、
「そろそろ次へ行こうか」
と、言った。心が通じ合い始めているのを感じた。
そこから二階に上がって、通路沿いに大小いくつもの水槽を見ながら進んでいく。
「うわぁ~、すごぉーい」
海中トンネルまで来たところで、歓声をあげてみせた。
ここは新幹線の一車両ほどの長さの通路が大きな水槽の中を貫いていて、海の中を歩いているように感じられる人気スポットだ。頭上にある窓から陽光が差し込んでいて、熱帯の海を思わせる。一匹のエイがガラスに張り付いていて、鼻と口でユーモラスな顔をつくっていた。
「あはは、変な顔!」
はしゃぎながら通路を駆け回ると、大きなエイが頭上を横切って陽の光を遮った。
「あっ、マンタだ! お父さん、マンタだよ」
無邪気に笑いながら沢渡さんの方を振り返ったあたしは、そのまま凝固した。うっかりお父さんって言っちゃったぁ~、と焦っているふうを装って目をそらし、首をすくめて縮こまった。何も言わずに沢渡さんに寄り添って、うつむいたまま手をつないだ。沢渡さんも黙ったまま手を握り返してきた。
トンネルを抜けて、いくつかのコーナーを通り過ぎるあいだ、沢渡さんはずっと手をつないでいてくれた。
[援交ダイアリー]
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