ちんちん生えてきた(02)

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■アトランタ USA  7月28日


 その日、疾病対策センターのキャサリン・カービイ博士は、昼食に出ようとしたところを突然の来客につかまった。相手はユーサムリッドのミハイル・ポドルスキー博士と名乗った。クリーニングしたてのような軍服姿だ。階級は中佐だという。陰険そうな目つきの小男で、制服で訪問したのも自分を偉く見せたいからなのだろうとキャサリンは思った。優越欲に染まった男にありがちなことだ。

「CDCで『タマ腐れ病』を担当しているのはカービイ博士だと聞いているが、もしやきみがそのカービイ博士かね?」

 ポドルスキーは詰問するような厳しい口調で尋ねた。キャサリンはムッとした表情を隠さなかった。部内でさえ見えない性差別は残っている。アポなしでやってきた部外者に女だからと格下扱いされたのではたまらない。

 まだ三十代でブロンドに巨乳、おまけに美人のキャサリンは、外見のせいで周囲から頭の悪そうな女と見られることにうんざりしていた。ヘテロ核RNAの分野でいくつかの重要な論文を発表しているが、いま任されている仕事はウイルス性とみられる男性の勃起障害の調査だ。自分には役不足だと不満を持っていた。しかし、忖度社会のアメリカではボスには逆らえない。もっともそれは二日前に新種ウイルスを検出するまでのことだ。いまは自分のキャリアにとって思いがけないチャンスかもしれないと考え始めていた。それにしても『タマ腐れ病』とは。

「まだ正式な病名はついていません。CDCでは便宜上『突発性性機能不全症候群』または『SSDS』と呼んでいます。ええ、わたしが調査担当のドクター・カービイです」

「CDCでつかんでいる情報を提供してもらいたい」

 キャサリンは不愉快を通り越して笑い出しそうだった。なんだこの男の態度は。CDCとユーサムリッドはアメリカの感染症対策の両輪として協力関係にあるが、たがいに縄張り意識も強い。はいそうですかというわけにはいかない。

「さて。そうは言っても大した情報はないんですよ、中佐。7月10日頃から全米各地で勃起障害の症例が報告されるようになりました。最初はCOVID-19の影響かと思われましたが、どうやらそうではないようで」

 キャサリンは相手の反応を探るように慎重に答えた。電子顕微鏡による観察で組織サンプルからウイルスのものらしいRNAを苦労して見つけたのだ。いまは分子構造の解析に取り組んでいる。RNA抽出試薬を応用した抗原検査手法も開発中だ。そうした情報をタダで明かすつもりはなかった。

「特に知りたいのは感染分布の状況だ。女性の感染者はどうなっている?」

「地区による偏りはないようですが、なにしろ勃起障害ですからね。症状があっても報告されない事例もあるでしょうし。ユーサムリッド側でつかんでいることも提示していただければ。おたがいの情報を持ち寄ればよりよい知見が得られるかも」

 そう言ってキャサリンは肩をすくめた。

 ポドルスキーはイライラした仕草でブリーフケースから一枚のモノクロ写真を取り出して、キャサリンのデスクの上に叩きつけた。電子顕微鏡がとらえた無数のRNA鎖の写真。キャサリンのチームが先日得たものと同じだ。

「四ヶ月前、原子力潜水艦ネレイドが北極海での極秘任務についた。ある種の医学的な実験のために最大六ヶ月の連続潜航を行う予定だった。いや、生物兵器に関する実験ではない。新薬の効果を確認することが目的のものだ」

「ちょっと待ってください。その話はわたしが聞いてもいい内容でしょうね?」

 いまの説明からするとネレイドの任務というのは、おそらく潜水艦の連続潜航期間を飛躍的に延長する薬品の実験だろう。食料補給の問題さえなければ原潜は浮上することなくいくらでも長く潜航できる。しかし、乗員をストレスから保護するために通常の潜航期間は二ヶ月以内に限られているのだ。軍は抗ストレス薬のようなものを開発中なのだろうか。それが勃起障害を引き起こすウイルスと何か関係があるとは思えないが。

 キャサリンは急に怖くなった。うっかり軍事機密を知ったためにあとで逮捕されるかもという不安ではない。ユーサムリッドは明らかに何か重大なことを知っている。それを聞いてしまったら自分の世界が崩れてしまうのではないかという恐怖だった。

 ポドルスキーはキャサリンの質問には答えず、話をつづけた。

「乗員は日課として心理テストのほか、血液、唾液の採取、週次で精液サンプルを採取されて、艦内のラボで検査されていた。十日前、実験は中止された。勃起障害を訴える者が増え、ついにどの乗員からも精液が採取できなくなったのだ」

 そこでポドルスキーは言葉を切った。キャサリンはすぐに理解した。

「潜水艦は任務中一度も浮上していないのでしょう? なら、乗員がウイルスに感染する可能性はなかったはずでは?」

「そのとおりだ。だが、帰投後の乗組員の体組織を検査したところ未知のウイルスらしきものが発見された。7月10日以前に採取された三ヶ月分のサンプルからは検出されていない。感染経路は不明だが、感染力は非常に強い。いまのところ空気感染すると考えている。きのう、フォート・デトリックのBSL4施設で感染事故があった。乗員の隔離に問題はなかったが多数の職員が発症した。原因は不明。施設は緊急閉鎖した。CDCの命令を待つまでもなく。すでに二名の死者が出ている」

「死者ですって? それはこの病気と関連があるのですか?」

 すくなくともCDCは勃起障害で死んだ患者の報告は受けていない。

「不明だ。一人はネレイドの乗員で、帰港前からアナフィラキシー様症状がみられた。もう一人はBSL4で彼を診察していた医師だ。死因はアナフィラキシーショックと思われる。検査してみると二人とも体中の細胞がウイルスの核酸であふれていた。それがこの写真だ」

 キャサリンは悪寒をおぼえた。BSL4で感染事故? 自分のチームでは無菌操作に普通のクリーンベンチを使っていたのだ。それ以上に、このウイルスは普通ではない感じがする。CDCの建物もすでに汚染されているかもしれない。

「中佐、症例はほとんどの州にわたって100例以上報告されています。全年齢の男性で、勃起障害、無精子症、性欲減退。しかし、性的な問題をはらむので、我々がどれくらい捕捉できているかわかりません。無関係なものも含まれているかも。性行為で感染する可能性も考慮して患者周辺の女性のヒアリングもしましたが、何人かが陰核の肥大化を訴えているほかにこれといって症状はないようです。国外の状況についてはまだ調査中でほとんど情報はありません。死亡者についてもです」

 説明しながらキャサリンは自分がまずい状況になっていくのを感じていた。つまらない病気だと思い込んで初動をミスしている。ポドルスキーの話を聞いたいま、このウイルスが何か深刻な影響をもたらすという予感があった。それなのにまだ何もつかめていない。

「とにかく情報が必要だ。我々は協力しなくてはならない。これは科学者としてのわたしのカンだが、人類滅亡というシナリオも考慮すべき事態だと思う」

 と、ポドルスキーは悲しげな目でキャサリンを見据えた。その瞬間、キャサリンはこの男が陰険でも横柄でもなく、自分の仕事に真摯なだけなのだと感じた。高圧的な態度はそれほど切羽詰まっているということの裏返しだ。実際、男性不妊が全世界に広まって、もし治療できなかったとしたら、人類はどうやって子孫を残せばいいのか。

 そのとき、デスクの上の電話が鳴った。相手はチームでデータ整理を担当している若い女性スタッフだった。いまにも死にそうな声でこう伝えた。

「キャサリン、実験室でバイオハザードが発生したようです。男性のドクター全員に症状が表れています。原因はわかりません。それと、女性感染者が陰核の肥大化を訴えていましたが、その意味がわかりました。わたしにペニスが生えてきたんです」

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