異次元を覗くエステ (07)
4
バコッ! ボコッ! ボコボコボンッ!
イソギンチャクの化け物が触手を振り回して、残りのお菓子の家を壊し始めた。お菓子でできた家はたちまち割れチョコと割れクッキーの山へと姿を変えた。
そして、長い触手を伸ばしてくるのを見て、ようやく彩香たちは我に返った。
「きゃあぁぁぁぁぁっっ! タコさん、いやぁぁっ!」
「うぎゃあぁぁぁぁっっ! お化けぇぇぇっっ!」
ふたりは弾かれたように立ち上がると、さっき入ってきたドアの方へと駆け出した。
ドアは開かなかった。自動ドアだったのでドアノブのたぐいは何もない。彩香はセンサーを反応させようと足で床をドンッドンッと蹴った。しかしドアは開かず、ショートブレッドでできたタイルが砕けただけだった。
「開けてよぉ!」
手でドアをたたいたけれど、応答などあるはずもない。ドアの向こうは食材を洗浄するための長い廊下しかないのだ。
「そうだ、あのボール。店員さんに連絡できるかも」
と振り返ると、さっきまで飛び回っていた銀色の球体はチョコレートの池に落ちていた。お菓子の家が爆発したとき、はじきとばされた壁――というか巨大なクッキーが命中したらしく、下敷きになっていた。
『(ごぼごぼっ)……当店で使用しているチョコ(ごぼっ)ートはすべてベルギー(ごぼごぼ)た最高(ごぼ)ひん。(ごぼごぼ)』
チョコレートにつかりながらスピーカーがゴボゴボと音を立てていた。だが、それは先ほど聞いた内容と同じ。
「録音じゃねーか!」
あの店員はこちらの様子など最初から気にしていなかったのだ。飼っている金魚にエサをやったとしても、そのエサを観察する人なんていない。それと同じだ。
間違いない。自分たちはこの怪物のエサとして放り込まれたのだ。エステの看板はエサにふさわしい若い女性をおびきよせるためのワナだったのだ。
「美緒、ほかの出口を探そう」
怪物は元の場所からほとんど動いていなかった。足はないようだが、動けないわけではないらしい。ズリズリと体を引きずるように徐々に位置を変えていた。人間の走る速さにはついてこれないだろう。だが、長い触手の動きは俊敏で、カメレオンの舌のようにすばやい。
彩香が美緒の手を取って走りだそうとしたとたん、チョコと生クリームでヌルヌルする手がするりとはずれた。
「きゃあぁぁぁぁっ!」
一本の触手が美緒の足首にからみついていた。美緒が足をぶんぶん振って逃れようとするが、じりじりと引っ張られていく。
彩香は美緒の両手を握って助けようとした。別の触手が美緒の腕と腰に巻きついて、強引に美緒を連れ去ろうとする。生クリームですべる手では美緒をつなぎとめておけなかった。
「いやぁぁぁっ、彩香ぁ!」
「美緒ッ」
何本もの触手に絡め取られ、美緒の体が持ち上げられた。
もう彩香の手は届かない。
彩香は美緒を捕まえている怪物の本体に向かって駆け出した。
「美緒を離せ、このバケモノ!」
こぶしで怪物の胴体をたたく。焼く前のパン生地のような感触だ。固さと弾力があって、爪を立てたくらいでは傷ひとつつけることもできない。
頭上から美緒の悲鳴がひびく。
あと数分のうちにも美緒が失われてしまう。彩香は生皮を剥がされるような恐怖を感じた。無力感に踏みにじられた。どうすることもできない。
不意に彩香の体が浮き上がった。
両手両足と腰に触手がからみついていた。そのまま彩香の体はバンジージャンプのようなスピードで宙を舞った。
投げ飛ばされたのかと思った瞬間、空中で静止した。二階の窓ほどの高さに持ち上げられていた。下にはチョコレートファウンテンが見えた。
彩香を捕まえた触手は、五センチほどの太さ、やや黒ずんだ肌色で、人間の皮膚のようにすべすべした感触だ。自由にくねくね曲がるようだが、彩香を拘束している部分は力をこめた筋肉のように固くなっていた。とても振り払うことはできそうにない。
彩香は首をまわして美緒を探した。悲鳴は聞こえるのだが姿が見えない。美緒の名前を呼ぼうとしたとき、触手が急に動き出し、彩香はチョコレートの滝に突っ込まれた。
「ぶはっ。このバケモノ! あたしをチョコレートフォンデュにするつもりか」
まさしくチョコレートフォンデュだった。おそらく滑稽な姿に見えるだろう。あたしの味付けじゃチョコの塗り方が足りなかったのか、と彩香は怪物にダメ出しされた気分になった。
ふたたび触手が大きく動き、彩香はチョコレートのしずくを飛ばしながら、またしてもバンジージャンプの勢いで宙を舞った。
そのとき、うごめく触手の中心に小さな丸い口が開いているのが見えた。短い牙が円形にびっしりと生えている。
なんとかしなければ。このままではあそこが人生の終着点になってしまう。
Copyright © 2014 Nanamiyuu