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夜のプールにしのびこんで全裸で泳ぐ――。最初はいい考えだと思ったのだ。
はじめのうち、とんでもない不良生徒になったような気分にわくわくして、結夢は笑いをこらえながら泳ぎに興じた。ところが、二十五メートルプールをクロールで二往復ほど泳いだところで、急にむなしくなった。高校二年生にもなってずいぶん子供じみたことをしてしまったと後悔した。
あたまをからっぽにして、結夢はうつぶせの姿勢で暗闇の中にただよった。よく晴れて暑い一日だったこともあり、水はぬるい。体を弛緩させるとお尻が水面に突き出した。水中で長く息を止めているコツはなるべく何も考えないことだ。考えごとをすると脳が大量の酸素を消費するからだ。
目を開けていても何も見えず、あたりは静かで、暑さも寒さも、体の重ささえ感じない。そのままじっとしていると、肉体のかすかな疲労と引き換えにストレスで固まった心がとけていくような気がした。
優等生キャラを演じるのに疲れているのだ、と、結夢はこのところの自分の精神状態を分析していた。成績はいいし、教師の評価も高い。友達もたくさんいて、男子にも人気がある。
けれど、毎日がつまらない。
優等生キャラを演じているのは生きるためだ。いまの生活にはもちろん、卒業後の進路にも影響する。だから優等生でいるのは正しい選択にちがいない。でも、そのせいで毎日が楽しくないのだ。
それ以上に結夢を悩ませているのは、優等生キャラの仮面を脱ぐ方法がわからないということだった。いまのキャラが演技なのは自覚しているが、では本当の自分はどんな人間なのかというと、さっぱりわからない。
それは静かな狂気にも等しい。結夢は恐怖にかられて、何でもいいから行動しなくてはいけないと思った。つまらない日常を打ち砕くような何かをすることができれば、逆にそれが本当の自分への手がかりになるのではないかという気がした。
何か突拍子もないことをしてみたい。ひとりで夜の学校のプールにしのびこんで泳ぐ。それだけではまだ足りない。全裸で泳ぐ、と思いついたとき、これだと思った。
ところがこうして実行してみると、思っていたほどの刺激はなかった。
いっとき高揚した気分もすっかり落ち込んでしまい、むなしさだけにつつまれて、水面をただ力なくただよった。
その時だ。すぐ近くで大きな水音がして、つづいて起きた波で結夢の体が上下に揺れた。
全身の神経がたたき起こされた。しかし、弛緩しきっていた体はすぐには動かない。
ごぼごぼと息を吐き出し、顔をあげようとしたとたん、鼻から水を吸い込んでしまった。手が届きそうなほど近くにじゃぶじゃぶという音が近づいてくるのを聞いて、結夢はパニックを起こしそうになった。
「おいっ!」
男の声と同時に腕をつかまれた。
暗闇の中にかすかな人影を認めて、結夢はいよいよパニックになった。手足をばたばたさせ、水を飲み込んでしまう。水を吐き出しながら何か言おうとするが声にならない。
男は、立ち上がろうとした結夢の背後にまわりこむと、結夢のあごをつかんであおむけに引き倒した。
「ゴボッ……、やだっ……、助けて……、ゴボッゴボッ……」
「しっかりしろ!」
と、咳き込む結夢に男の声が応えた。しかし、冷静さをなくした結夢には男が何を言っているのか伝わらなかった。自分がどこかへ引っ張られていくのを感じて、結夢は恐怖におののいた。
何が起きているのか皆目わからないが、自分はこのまま死んでしまうのではないかと思えて、結夢はじたばたと抵抗した。
男が手を離し、結夢は大急ぎで逃げた。伸ばした手に硬いFRPの壁があたった。プールの縁だと気づいて、両手でしっかりとつかんだ。それでようやく気持ちに余裕の出た結夢は、男の方に目をやった。男は肩で息をしながら結夢の顔を見つめている。敵意は感じられず、襲いかかってくる様子もなかった。
「大丈夫か? お前が生きていてよかった。俺はてっきり死体が浮いているものと思ったぞ。まったく、あわてさせやがって」
呼吸を整えるあいだに、男の言った言葉の意味がわかってきた。
「死体だと思ったのに飛び込んで素手で触るなんてバカじゃないの? 誰もいない夜の学校のプールだよ。気持ち悪いとか恐ろしいとか思わなかったわけ?」
「ああ、言われてみりゃそうだな。しかし、まだ息があるかもしれんし、俺は救命訓練の講習を受けたこともある。人工呼吸とか心臓マッサージとかな。ほかに誰もいないからこそ、確かめずにあきらめるわけにはいかんだろ」
男は笑みを浮かべると、明るい声で、
「熊田の方こそ、ひとりで夜のプールにしのびこむとか、怖くないのかよ」
「くま……っ、なんであたしの名前を知ってるのよ!」
「傷つくなぁ。俺は同じクラスの三田村だよ。三田村吾郎」
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