由香はしかたなく立ち上がって前に出た。数学は得意ではなかったが、当てられた問題はただの計算問題で、その場で解けばなんとかなるだろうと思った。
が、頭が働かなかった。黒板に問題の計算式だけを書き写したところで、チョークを持ったまま立ちすくんだ。
ぜんぜんわからない。
ほかの生徒たちは問題を解いてつぎつぎに席に戻っていく。汗がにじむのを感じた。焦れば焦るほど、何も考えられなくなる。
先生が別の座席の列を選んで、続きの問題を当てた。その中には武一が含まれていた。武一が当てられたのはかなり難しい文章問題だった。数学は武一の得意科目のひとつだ。それでも、解答を書くのには時間がかかる。
いつしか、前に出ているのは由香と武一だけになっていた。
黙々と問題を解いていく武一の横で、由香はチョークを持ったままうつむいていた。武一は由香の存在を無視しつづけている。くやしくてたまらない。嗚咽がこみあげてくるのを必死になってこらえた。
先生がしびれを切らして、
「天音、宿題やってこなかったのか? もういいから席に戻りなさい。誰かこの問題できる人いるか?」
胸がズキリと痛んだ。ふだんならこの程度の問題は難なく解けるのだ。それなのに、ここでも切り捨てられるのか。
「よし、じゃあ三木本」
全身の血が逆流するような感じがした。ふつう、ここで手を上げる生徒などいるはずがない。それなのに奏が手を上げたのだ。由香と武一が残ったのは偶然だ。でも、由香のかわりに奏が出てきたのは偶然ではない。当て付けとしか思えなかった。
前に出た奏は由香を押しのけるようにしてチョークを取ると、由香が書き写した問題に続けて解答を書き始めた。
武一と奏が解答を書くチョークの音だけが聞こえた。
足元の感覚がうつろになってく。自分はここで倒れるのではないかと思えた。
「どうした、天音。席についていいぞ。これからはちゃんと宿題やってこいよ」
先生が声をかけたけれど、由香はその場から動けなかった。
「先生、天音さんは今朝から具合が悪いんです。保健室に連れて行ってあげてもいいですか」
倫子が手を上げて言った。由香の様子を不審に思っていたらしい先生は、納得した様子で、そうかならしかたないな、と答えた。
倫子は、ふらふらした足取りの由香を支えながら、教室から連れだした。
「マジで具合悪そうだよ、由香。ほんとに保健室行ったほうがいいんじゃね?」
由香は首を振った。六時限目の授業を受ける気にはなれない。でも、保健室なんか行ったらおおごとになってしまいかねない。授業をエスケープしたことなどなかったが、とりあえず美術室に行くつもりだった。
「あたし、もう学校、来たくない……」
「ちょっと、由香。しっかりしなよ」
しっかりなんてできるはずがない。由香は親友に自分を否定されたように思った。いまの自分の気持ちをわかってくれる人なんていないのだと思った。
いま、奏はクラスで仲間はずれにされている。でも、奏には武一がついている。昼休みに武一が奏を連れていったときのことを思い出した。世界中を敵にまわしても自分は奏を守る、と言いたげな顔だった。
だから奏は強く振る舞えたのだ。
ひとりぼっちなのは由香のほうだった。
[失恋パンチ]
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