ヘブライ6:4-12

 信仰と忍耐によって

2024年 10月 13日 主日礼拝

『信仰と忍耐によって』

聖書 ヘブライ人への手紙 6:4-12           

 今朝のみ言葉は、ヘブライ人(じん)への手紙(Προς Ἑβραῖος :プロス へブライオス)からです。この手紙には良くわからないことがあります。まず、ヘブライ人とはだれか?ですが、ローマ帝国時代は、一般的にユダヤ人のことを指していたようです。ユダヤと言うのは、「南王国ユダの王様がヤコブ(イスラエル)の子ユダの子孫であることから来ている」とされています。そして、一般には、ユダヤ教を信仰している人がユダヤ人であります。これは、当時から変わっていません。余談ですが、国籍がイスラエルであることを言うときは、イスラエル人と呼びます。ですから、ユダヤ教徒でないイスラエルの民はイスラエル人と呼ぶことになります。それが、初期のキリスト教会では、違いました。ユダヤ教からキリスト教に改宗した人をヘブライ人と呼びます。当時のキリスト教会は、ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)で始まりましたから、ユダヤ人とヘブライ人と異邦人が教会の中にいたわけです。加えてそこにイスラエル人もいたことでしょう。

 ということで、この手紙は名前の通りユダヤ教からキリスト教に改宗した人々に向けて書かれたのです。そして、誰が書いたかですが、パウロであるという説とパウロ以外の人物との説があります。そんなことから、へブライ人への手紙は、パウロ書簡と公同書簡の間に置かれているわけです。それから、もう一つ大きな特徴があります。ギリシャ語が美しいのだそうです。ですから、ヘブライ人への手紙は、内容から見れば、パウロが言いそうなことですが、美しいギリシャ語という点でパウロの書簡ではなさそうです。


 さて、西方教会(ローマカトリック教会)は「ヘブライ人への手紙」に対して否定的でした。それは、例えばこんな箇所があるからです。

『6:4 一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、6:5 神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、6:6 その後(ご)に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです。』


 ほかにも、「キリスト教の信仰を捨てた人たちは、キリスト教会に戻さない」と読める言葉があります。この言葉の背景には2世紀(西暦100年代)のローマ帝国によるキリスト教迫害があります。迫害に耐えかねてキリスト教会から出る人もいました。そして、彼らの中の多くは、後で、教会に戻ることを望みました。すると教会としては、一度出た人々を区別するかどうか、悩むこととなります。また、教会に戻るときに、「再びバプテスマ(洗礼のこと)が必要か?」が問題になっていました。


 2世紀の神学者であるユスティノス(Ιουστίνος, 100年? - 165年)は、信仰を合理的に論じようとした第一人者でありました。彼は、当時のギリシア哲学である「ロゴス」(言葉、論理など)をキリスト教に取り入れます。その論理的な神学者ユスティノスはこの問題の箇所の「聖霊にあずかる」ことを、洗礼(バプテスマ)のことだと解釈します。すると、「バプテスマを受けた後、一度信仰を捨て去った者は、信仰に立ち返ることができない。」と言うことなのか?疑問を持ちます。そこで、この6:6を直訳してみました。

「神様に背を向ける人。そのような人々を悔い改めに戻すことは不可能です。神の御子を拒むことによって、彼ら自身が再び神の御子を十字架に釘付けにし、公に恥をさらすからです。」

この訳から見ると、教会を一度出て戻りたいと願っている人に対して、「戻さない」と言っているようには思えません。また、実際に、「戻さない」と言う結論にはなりませんでした。そして、ユスティノスは、教会に戻ることを希望した人について、「改めてバプテスマ(洗礼)を授けるべきではなく、かつて一度授けられたバプテスマで十分だ」と指導したのです。  

 その事実から見ても、もともと、「堕落した人は悔い改めても赦さない」と言う意味ではなく、むしろ、「堕落することはない」ことを前提としているのだと思います。そしてもし、「堕落した」ならば、イエス様を2度も十字架にかけると言う矛盾が起こります。だから、「堕落する」ことは ないのです。イエス様の十字架は一回です。イエス様の十字架で救われない者はいないからです。・・・ 一度罪を悔い改めてバプテスマを受けたその事実は、覆りませんし、永遠に効力があります。

 さて、西方教会(ローマカトリック教会)はこの「ヘブライ人への手紙」を新約聖書の正典の一つとしましたが、マルティン・ルターは、こう書いています。「~この手紙には難しい箇所がある。6章~は罪人たちが洗礼を受けた後に犯した罪に対して悔い改める機会を拒否している。~」 と。 この辺は、読み方で解決する思います。書き手の意図から考えると、その批判には当たらないからです。まず最初に、「ヘブライ人への手紙」のこの箇所は「堕落した者たちが教会へ戻ることを許可しないこと」を言おうとしたのではなく、「堕落する者は出さないこと」が前提にあります。そしてその言い方に覚えがあります。イエス様のこのみ言葉です。

マタイ『12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」』

 私たち罪人は、バプテスマを受けた後でも変わることなく、罪を犯しながら、罪の赦しに与っています。同じように、自分の身を守るために教会を離れた人たちも、赦され続けるのでしょうか? それは、yesです。ですから、「ヘブライ人への手紙」では堕落を警告してはいるものの、聖霊を否定するような堕落を想定していないのです。たとえば、この箇所を見ると、手紙の宛先であるヘブライ人の信仰に、問題があるとは思っていないようです。

『6:9 しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています。6:10 神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。6:11 わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。6:12 あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです。』


 この手紙を受け取る人たちの中には、一時的に教会を捨てた人もいます。そういう人たちが、以前のように今も教会に仕えることをこの手紙の著者は勧めています。そしてもっと熱心に働くことを 望んでいます。

 この問題の箇所『6:6 その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。』は、先ほどの聖霊についてのイエス様の言葉と同じように、「聖霊を拒むならば、その罪は赦されません。」との意味で理解できます。聖霊に与ってバプテスマを受けたので、私たちのすべてが赦されています。しかし、その希望を持つためには、信仰を保ち、聖霊を受け入れ続けることが必要です。なぜなら、救いも、すべての働きも、信仰も忍耐も聖霊の助けによるからです。


 ところで、私たちは「信仰から離れて、戻る」ことを、どう考えたらよいでしょうか? その参考となるのが、この記事です。

マタイ『26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。』

この結末は、三度目に「知らない」と言った場面の記事であります。

マタイ『26:74 そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。26:75 ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。』

 人々の前でイエス様のことを「知らない」と言ったペトロですが、実際、三日目には信徒たちの群れに戻っていました。逃げたのは、ペトロだけではありません。男性の弟子たちすべてが、十字架の時に逃げました。ですから、この記事から、すべての弟子たちが、信仰者の群れに戻ることが許された と 読み取れます。同じように、2世紀のローマにあった教会への迫害で、教会を離れていった人々も、教会に戻ることが許されたのです。


 もし私たちが信仰を離れるならば、それは深刻な事態です。しかし、身の危険が迫っているときや罪の奴隷になっている、そんな時にはどうにもならないのかもしれません。それゆえ人には いつも神様とつながる努力が必要です。そのためには、教会を長く離れて、神様との結びつきがほどけてしまってはならないのです。だから、パウロは次のように書いています。

ローマ『6:16 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。』

そうです。神様に従順に仕えましょう。私たちが、『信仰と忍耐とによって、~見倣う者』となることを、神様は期待しているのです。そのことを覚えて、神様に従順であった 信仰の先輩を見倣っていきましょう。