マルコ8:27-38

  メシと告白しつつも

◆洗礼〔バプテスマ〕(せんれい) 従来のプロテスタント諸訳では「バプテスマ」と訳されていた~元来「水に浸す」という意味。ヨハネは「悔い改めの洗礼」を授けた(マタ 3:7)が,ユダヤ教の一部では,宗教的な清めの儀式として,身を水に浸すことが行われていた。キリスト教では,罪からの清めと,キリストと一致する新しい生活に入るしるしとなり,教会の重要な聖礼典もしくは秘跡となった(使 8:36,9:18,ロマ 6:3,4,ガラ 3:27)。(新共同訳聖書の解説)

◆預言者(よげんしゃ) 神の啓示を受け,神の名によって語る人。~新約では,旧約の預言者個人を指す場合(マタ 3:3,4:14)と,「律法と預言者」というように,旧約の第2部を意味する場合がある。また,初代教会には使徒の次に教師,奇跡を行う者などと並んで預言者がいた(1コリ 12:28)。これは神の霊によって預言をする能力を与えられた人であった(1コリ 14:1)。(新共同訳聖書の解説)

1.ペトロ信仰を表す

 マルコ1:14によると、イエス様はバプテスマのヨハネが捕らえられてから、ガリラヤで伝道を始めています。そういう意味で、バプテスマのヨハネの活動を引き継いでいるようにも見えます。エリヤは、アハブがイスラエルの国王だったころの預言者で、モーセ後最も偉大な預言者と言われています。また、1世紀のユダヤでは、エリヤが再来するとの伝承があったようです。その再来が、バプテスマのヨハネだといわれたり、イエス様がエリヤの再来だといわれたりしていたようです。イエス様は、弟子たちに「イエス様のことはなんと言われているのか?」を聞きました。バプテスマのヨハネの生き返り(マルコ6:14)だという人もエリヤの再来だという人も多い様です。そして、普通に預言者として受け止めている人もいたようです。今でもイスラム教ではイエス様は預言者の一人として数えられています。(ユダヤ教ではラビ「教師」の一人です)イエス様は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と弟子たちに尋ねます。

すこし、無鉄砲なところがあるペトロはさっそく答えます。「メシア」だと。メシアとは救い主のことです。(言葉の由来は、「油を注がれた者」から来ていて、イスラエルの王を指します。)当時の伝承では、ダビデの子孫にメシアが生まれることになっていました。ペトロは、何の根拠をもってイエス様をメシアだといったのかわかりませんが、この言葉からイエス様を預言者以上に見ていたのは間違いないでしょう。しかし、本当にメシアだとペトロが信じたのは、復活のイエス様に会ってからだと思われます。まだ、イエス様のことを心底には信じていない弟子たちを見て、イエス様はこのことを誰にも話さないように戒めました。

2.死と復活を予告する

 

 イエス様(人の子)は、『長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活すること』を弟子たちに教えました。すると、ペトロがその教えについてイエス様を諫めます。この記事の平行記事がマタイとルカにはありますが、ペトロの諫めを書いているのはマタイだけです。

マタイ『16:22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」』

やはり、ペトロはイエス様がメシアだと告白してはいるものの、そのメシアが何者であるのかはわかっていなかったようです。そして、イエス様がこれから起こることを教えているにもかかわらず、メシアの伝承が成就してはならないと言ってしまったのです。イエス様は、ペトロを叱ります。

『「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」』

たしかに、ペトロの言っていることは人間の思いです。神様の計画についてイエス様が教えているにもかかわらず、ペトロは神様の計画が成就することに関心を持っていなくて、人間イエスの命に関心があったのです。イエス様は、ペトロを叱った後、群衆と弟子たちに向かって教え始めます。


「十字架を背負う」とは、十字架刑に架けられる者に十字架の横木を背負わせて、引き回したことから来ています。ですから、イエス様の後に従いたい者は、十字架刑にかけられる覚悟で、イエス様に従いなさいとのご命令だったのです。そして、このように言われました。


『8:35 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。』


この言葉も理解しにくいものです。まるで、あべこべになることは、イエス様は他にも言われています。

マルコ「10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」」


これらは、この地上の出来事と天の国での結果を言っているので、決してあべこべではないことを理解してください。この世で、自分の命を救いたいと思う者は、天の国での命を失います。その逆はと言えば、自分を捨て、自分の十字架を背負ってイエス様に従った者は、天の国での命が得られるのです。そうしなかった者は、自分の命を救いたいと思ってのことですが、地上の命はしばらく長らえるだけで、天の国では命を頂けないのです。