ローマ9:19-33

神の怒りと憐れみ

 1.神の怒りと憐れみ

 

 この箇所の前では、「神様の憐れみ」をパウロは説明しています。パウロ自身が神様に用いられているのも、「パウロが優秀だからではなく、神様が憐れんだから」だと、神様に責められる立場であることを断言しています。それに対して、「全ては、神様の責任で人には責任がない」と、反論が来ることを予想します。

(パウロが予想した反論)
「もし、神様が私たちを憐れんでくださっているのであれば、神様は人を責めることはしないはずです。そもそも、人は神様に逆らうことはできません。ですから、神様のお考えの通りになっているはずです。そんななか、どうして神様が私たちを責めることができるのですか?」


 この反論は、「パウロが神様の憐れみによって用いられていた」と主張したことを受けて、神様が全ての人々に目的を持って関わっていたことを前提にしています。人々の間のすべての出来事が神様の命令に従って起こったのでであれば、神様に逆らうことのできない人間のことを神様が失望するはずはありません。そして、もし神様御自身の栄光がすべてにおいて保たれるのなら、神様は人々を責める必要がありません。

この考えについては、だれでも以下のような異議があるでしょう。

(1)神様の目的が明確にあっても、神様は人間に自由な選択を望まれている。

(2)しかるに、神様の目的によって人間は従い、逆うことができないとの仮定がある。

(3)神様の計画が成し遂げられれば、最善のことは成し遂げられると信じている。

   (この神様の計画は、神様の責なので、人間に責はない。また、人の行いは人の責であり、人が責を負う)

 パウロは、次のように説明します。「神様に口答えするとは、あなたは何者か?」。つまり、造られたものが造った者に対して、言うことではないと・・・。土をこねて造った器を、日常の食器に使おうが、尊い働きのために使おうが、それは造った者の意思によるものです。そもそも、「怒りの器」であった私たちを神様が憐れんで、「憐れみの器」として用いてくださっているのです。神様の民でなかったのが、神様の民として異邦人伝道に用いてくださっているのです。

ホセア『2:1 イスラエルの人々は、その数を増し/海の砂のようになり/量ることも、数えることもできなくなる。彼らは/「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と/言われるかわりに/「生ける神の子ら」と言われるようになる。』


 また、ソドムやゴモラの町のように破壊されつくすべき怒りの器が、神様の意思によって残されていたのです。(責められるべきものが、憐れみを受けたのです。)

イザヤ『10:22 あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者だけが帰って来る。滅びは定められ、正義がみなぎる。』

イザヤ『1:9 もし、万軍の主がわたしたちのために/わずかでも生存者を残されなかったなら/わたしたちはソドムのようになり/ゴモラに似たものとなっていたであろう。』


2.イスラエルと福音

イザヤ『28:16 それゆえ、主なる神はこう言われる。「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石/堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ。信ずる者は慌てることはない。』


 イザヤ書には、躓きの石とは書かれていません。尊い隅の石とは、メシアのことを指します。新約聖書では、その隅の石である「イエス様に躓く」こと、つまりイエス様を信じるかとがまだできていない人々をさした表現として登場します。


 異邦人たちは、イエス様を信じて「義」とされたのですが、ユダヤ人たちの多くがイエス様を受けいれないで、「義」とはされなかったのです。律法を重視するユダヤ人たちは、律法によって「義」とされようとするのですが、律法にはそのような働きはないのです。イエス様を信じなかったユダヤ人たちは、イエス様に躓いたのです。そのことは、イザヤ書には直接預言されていませんが、「信じる者は慌てることはない」と、その石に躓くのは、メシアを信じない人であることは明らかです。