エレミヤ33:14-16 

恵みの約束

2021年 11月 28日 主日礼拝

恵みの約束

聖書 エレミヤ書33:14-16

おはようございます。今週から、アドベントです。今日は、アドベントにちなんで、エレミヤ書から救い主の預言を学びます。エレミヤと言えばイザヤと並ぶような大預言者でありまして、列王記の上下およびエレミヤ書、哀歌を書いたとされています。

エレミヤの生きた時代は、ちょうどユダの国がバビロンに捕囚されようとしていた頃です。エレミヤ書の冒頭には、このように書かれています。

エレミヤ『1:1 エレミヤの言葉。彼はベニヤミンの地のアナトトの祭司ヒルキヤの子であった。1:2 主の言葉が彼に臨んだのは、ユダの王、アモンの子ヨシヤの時代、その治世の第十三年のことであり、1:3 更にユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの時代にも臨み、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの治世の第十一年の終わり、すなわち、その年の五月に、エルサレムの住民が捕囚となるまで続いた。』

 

エレミヤは、ユダの国が亡びようとしているときに、神様のみ言葉を取り次ぎました。しかし、その言葉をユダの民が聞かなかったのです。そのため、ユダの国は、神様のご意志によって滅ぼされてしまいます。それが、バビロン捕囚という出来事だったのです。

 

それでは、エレミヤは、いったいどんなことをした人なのかを聖書の中から簡単におさらいしてみましょう。

 

はじめにエレミヤが、神様から見せられた幻は、「煮えたぎる鍋が見えます。北からこちらへ傾いています。」(エレミヤ1:13)でした。それは、北からくる禍の預言であります。当時アッシリアがオリエント地方全体を支配し、バビロンもユダもその支配下の国でした。この異教の国アッシリアによる支配は、指導者たちに原因があると、神様はエレミヤをとおして語ります。それは、イスラエルの神にではなく、バアルの預言者の言葉に頼ったことを指しています。

 

「律法を教える人たちはわたしを理解せず/指導者たちはわたしに背き/預言者たちはバアルによって預言し/助けにならぬものの後を追った。」(エレミヤ2:8-9)

 

この神様の言葉をもって、エレミヤはユダの民に「悔い改め」をよびかけます。しかし、ユダの民は異教の神を礼拝する事はやめなかったのです。そのため、エレミヤの預言は成就します。アッシリアが衰退して禍が一時的に去ったものの、今度は、アッシリアを倒した新バビロニア王国がエルサレムを破壊しつくし、ユダの民はバビロンに捕囚されたのです。

 

エレミヤは、ユダの民に「悔い改め、イスラエルの神の信仰にもどる」ように活動しましたが、人々は受け入れませんでした。バアルを礼拝することに熱心だったからです。それでも、ヨシヤ王の代では宗教改革をして、バウルの祭壇を打ちこわし、イスラエルの神様に立ち返ろうとしました。しかし、多くの人たちがイスラエルの神様への信仰に戻らなかったのです。ですから、ヨシヤ王がエジプトと戦って戦死してしまうと、元に戻ってしまいます。ヨシヤ王の息子であるヨアハズ王は、即位すると途端に罪を犯しました。(列王下23:31)

またこの時代には、豊饒の神バアルによって預言を行う預言者たちがいて、エルサレムの指導者や民衆は、エレミヤよりも彼らを支持していたようです。ヨシヤ王による宗教改革では、バアルなどの祭壇を汚し、異教の祭司を殺しましたが、根絶やしにはならなかったようです。

エレミヤは神様の言葉を取り次いでいくのですが、バアルの預言者を支持する人たちから命を狙われるようになります。そのことをエレミヤは、神様から知らされるのです。(エレミヤ11:21)

エレミヤはそのとき、正しいものが苦しみ、不正を行うものが栄える、その矛盾を神様に訴えます。

エレミヤ12:1『正しいのは、主よ、あなたです。それでも、わたしはあなたと争い/裁きについて論じたい。なぜ、神に逆らう者の道は栄え/欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。』

エレミヤが、悔い改めを勧めても、神様に逆らうものがますます栄えている現実を見て、エレミヤも自分の役割に疑問を持ったのでしょう。

 

またエレミヤは、侵略者であるネブカドネザル2世を「神の僕」(25:8-9) であると言い、イスラエルの戦禍を神の意思であると預言したため、仲間であるはずのユダヤ人たちから激しく攻撃されます。命の危険が迫っていたと思われます。なぜなら、エレミヤと同じように神様のみ言葉を告げていた預言者ウリヤは実際にヨアキム王によって殺害されているからです。(エレミヤ26:20-23)。

 

そして、ゼデキヤ王の時代になると、「エジプトに行ってはならない」と説いたエレミヤは牢獄につながれるようになります。なぜなら、バビロンの傀儡でしかないゼデキヤ王が、バビロンを裏切ってエジプトと組もうとしていたからです。エレミヤは投獄された後も預言を続けますが、「エジプトに行ってはならない」との神様からの預言を繰り返しますが、エレミヤ自身がエジプトへ連行されてしまいます。こうして、ゼデキヤ王はエジプトを頼りにして、とうとうバビロンを裏切ったのです。その裏切りに怒ったネブカドネザル2世の二度目の攻撃で、完全にエルサレムは破壊されました。

『43:10 彼らに言いなさい。イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは使者を遣わして、わたしの僕であるバビロンの王ネブカドレツァルを招き寄せ、彼の王座を、今埋めたこの大石の上に置く。彼は天蓋をその上に張る。』

この預言の様に、エレミヤが絶望的なユダの国の運命を民に告げていました。しかし、このような状況にあって、エレミヤが伝えていたのは、未来への希望でもありました。それは、バビロン捕囚からもどってから齎される、イスラエル回復の預言です。

『31:1 そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。』

エレミヤは、バビロンの捕囚の後に捕囚された民が取り戻され、そして新しい契約を結ぶことになるとの未来への希望を預言しました。

 

さて、今日の聖書の箇所は、そのイスラエルの家、ユダの家に対する預言です。イスラエルの家とユダの家と言い表されているのは、もともとはダビデの家であります。ダビデの王朝は、イスラエルの家がアッシリアによってほろぼされ、ユダの家がバビロン捕囚によって途絶えてしまいました。しかし、神様は、「恵みの約束」を用意して下さいました。それが「正義の若枝」なのです。全イスラエルの回復は、ダビデの家の子孫から出る「正義の若枝」によって齎されるのです。この「若枝」とは王なる救い主である「メシア」を意味します。若枝については、エレミヤ自身がこの様に語っています。

エレミヤ『23:5 見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え/この国に正義と恵みの業を行う。23:6 彼の代にユダは救われ/イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。』(イザヤ4:2/ゼカリヤ 6:12等)

これを見ると若枝とは明らかに、救い主のことを言っています。

(注:「主は我らの救い」は、イエス様の名前そのものです。原文は「主はわれわれの正義」であり、口語訳もこの正しい訳を使っています。)

 

そして、ユダの国は、「正義の若枝」である救い主によってエルサレムが統治され、エルサレムの街が「主は我らの救い(正しくは正義)」と名づけられることを預言しています。こうして、エレミヤはバビロンの捕囚による国の滅亡の後、一人の救い主が現れ、この国を正義で納める、との希望を預言し続けたのです。

 

これがエレミヤの預言「正義の若枝」であり、メシア(救い主)が与えられる恵みの約束です。このダビデ王家が復興するとの神様の約束は、やがて「メシアはダビデの家から生れる」という信仰になり、ダビデの町ベツレヘムに生まれるという伝承となりました。

そうして、預言通りにイエス様はお生まれになったのです。後に、イエス様は弟子たちに「私こそ、メシアである」(マタイ16:17など)と、エレミヤの預言が成就したことを宣言しました。しかし、イエス様はイスラエルの王としてふさわしい、華々しい姿をしていませんでした。そして、イエス様が地上で伝道をしているときに、多くの人はイエス様を受け入れませんでした。なぜなら、イスラエルの民が待っていたメシアは、イエス様のようなメシアではなかったからです。イスラエルの人々は、バビロンによって捕囚されている時から、メシア(救い主)が与えられる預言を信じ、イスラエルを解放してくれるようなメシアがこの世に来られることを、待ち望んでいたのです。それぞれの人が、頭の中で思い浮かべる救い主の姿は、色々でしょう。少なくとも、救い主はイスラエルの王ですから、まさか馬小屋の飼い葉おけに寝かされている赤ん坊が救い主とは、思いもよりません。そして、大工の子がメシヤであることも思いもつかないでしょう。神様はそういう、王様らしくないメシア(救い主)を私たちに送ってくださったのです。神様は、すべての人を救うために、神様の御子を最も低いものとしてこの世におくって下さいました。ですから、イエス様は最も恵まれない人々に寄り添うことができました。

この神様のご計画は、イエス様の十字架と復活によって、大きく動き出します。イエス様を信じる者の上に、救いがやってきたのです。

 

今日から、アドベント。日本語で言うと待降節です。イエス様誕生の12月25日からさかのぼって数えて、4つ目の日曜日からアドベントです。そして、このアドベントは教会歴の最初になります。待降節から1年が始まるのです。そして年間を通して最も大事な時が受難と復活です。イエス様は、この受難と復活の出来事を通して、私たちの罪を赦されるために、この世に生まれたのですから。私たちは、アドベントの間、救い主が生まれることを告げ知らすと共に、イエス様の十字架の死によって、私たちの罪や悩みの全てをイエス様が背負ってくださっていることを告げ知らせたいものです。マタイによる福音書では、東方の占星術の学者の記事がありますが、この記事は、イエス様の十字架の死を暗示させるものです。

マタイ『2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。』

黄金と乳香は、誕生の祝いとして理解できるものだと思いますが、問題は没薬です。マイラという薬ですが、葬りのために使う薬です。イエス様は、生まれるときから、神様のご計画によって、十字架によって私たちを贖うことが定められていたのです。

この贖いについては、イザヤ書に預言されております。

イザヤ『53:11 彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。

53:12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。』

このアドベントの時期に、神様の大きな救いの計画を憶えて、この救いが私たちの知る人すべてに伝わるように、祈りましょう。イエス様が私たちに代わって十字架におかかりになったがために、私たちは福音に与っています。感謝して、イエス様の福音が私たちから広がっていくようお祈りしましょう。