エゼキエル18:1-3,25-32

立ちって、生きよ

2023年 611日 主日礼拝 

立ち帰って、生きよ

聖書 エゼキエル18:1-3,25-32     

 今日の聖書は、エゼキエル書からです。エゼキエル書は、『イザヤ書』、『エレミヤ書』とならぶ三大預言書と呼ばれています。預言者エゼキエルが活躍しだしたのは、ユダの国がバビロンに捕囚された紀元前597年あたりとなります。エレミヤ書がエルサレムの滅亡前に送られた神様の言葉であるのに対し、エゼキエル書は バビロン捕囚の民に送られた神様の言葉です。エゼキエルは、捕囚となった民、国を失って失望していた民に神様の言葉を伝えました。


 捕囚の民は、「親やその親たちの罪のせいで、自分たちはバビロンの捕囚となり、異国の地で働かされている。自分たちは何も悪いことはしていない、只の被害者だ」と思っていました。それを表現したのが、『先祖が酢いブドウを食べれば子孫の歯が浮く』という格言です。

 「先祖が罪を犯したから捕囚になった、その罰を自分たちの代が受けるのは不当だ」という不満であります。しかし、それは事実とは異なります。エゼキエルの時代には、神様は忘れ去られていました。エルサレムの神殿の中のいたるところに偶像が置かれ、また描かれていました。そしてエルサレムの長老たちがその神々や太陽を礼拝していました。この様子はエゼキエル書の8章にあります。これが事実なのです。神様の怒りは、この民の先祖に向けてではなく、この民自身へのものでした。しかし、ユダの民は「自分が悪いのではない」と開き直っていたのです。神様は、その民にこのように告げさせます。

『18:1 主の言葉がわたしに臨んだ。18:2 「お前たちがイスラエルの地で、このことわざを繰り返し口にしているのはどういうことか。『先祖が酢いぶどうを食べれば/子孫の歯が浮く』と。18:3 わたしは生きている、と主なる神は言われる。お前たちはイスラエルにおいて、このことわざを二度と口にすることはない。』

 神様は、捕囚の民に「先祖が悪い」とは二度と言わせないと宣言しました。つまり、「あなた方の罪によって、この捕囚の出来事は起こったことを知りなさい」と神様は、語ったのです。このバビロン捕囚の期間に、神様に立ち返ることを、そして罪を犯さなくなることを神様は期待するわけです。そのためには、猛烈な罪への反省が必要です。バビロン捕囚は、その反省を促すために神様が準備したのだと言えるでしょう。実際、神様に立ち返る兆しがありました。その一例として、バビロン捕囚中に多くの旧約聖書の記事が編纂されたことが挙げられます。実は、驚くべきことに旧約聖書は、バビロン捕囚前に失われていました。列王記下に宗教改革をしたヨシヤ王の記事があります。

列下『23:24 ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した。こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。』

ヨシヤ王の時代(在位BC641-640)には、すでに律法の書つまりモーセ五書が使われなくなった上に、忘れ去られていたと言うことになります。

 ここまで神様から離れてしまった事実に、言い訳のしようもないところですが、・・・人々はそれでも、私たちが悪いのではないと・・・認めようとしないのです。


 現代のニュースを見ていても、親や先生等の本来子供を保護すべき人が、が子供の保護を怠っていたとか、基準やルールを守らなかったため、危険な状態にあったとかの話題が報道されます。このようなニュースでは、当事者は「私は、適切に処置しました」とか、「結果的に起こってしまった」等、苦しい言い訳をしていることが多いようです。人間は、罪深いので、自分の罪は認めないのですね。罪を認めないことは、イコール反省する機会を失う事です。だから、罪を認めない私たちは、罪を繰り返し犯してしまいます。

 唐突ですが、保険屋さんのお話をしたいと思います。損害保険屋さんは、事故の被害を保障してくれます。ただし、無条件にではなくて事故の原因を調べます。そして、保障の対象外となる場合、その費用は払いません。例えば、意図してルール違反をしている場合等は支払うはずがありません。逆に必ず保障しなければならないのは、新しい知見です。世の中の誰も知らない現象を回避することは困難ですから、その場合は保障します。その代わり、二度目の補償はありません。二度目は、すでに知見があることなので、事故が起きる前に対策をします。この場合、有効な対策であると保険屋さんが認めなければ、保険は継続できません。世の中では、こんな仕組みで学習効果が回っているわけです。ところが、この良い仕組みを使っていながら、必ず良くなっていくわけではないのですね。なぜなら、人間は罪深いからです。一例を言えば、先の電力会社の原子力発所の事故です。津波の高さの予想がありました。歴史的実績を隠して、実績より低い津波の高さを、極めて高度なシミュレーションで予想したわけですね。だから、予想した高さ以上の津波が来ました。当然ですね。でも、「想定外の高さの津波が来たから、我々が悪いわけではない」という趣旨で自己弁護をしていたと記憶しています。「想定外」とは、都合で決めた数字を上回ったと言う意味です。都合とは、「それ以上高い津波を想定したら、お金がいくらあっても足りない」事が挙げられます。人間は都合の悪い話は、あまり好きではありませんから、その議論を避けようとします。つまり、考えることをやめてしまうわけです。その、考えることをやめてしまったときに便利な言葉が「想定外」なのです。つまり、考えることをやめたのに、想定できなかった様に装っているのです。言い換えますと「想定外とは、検討の対象から除外」したことを示します。その想定外を主張する本人は、「私は悪くない」と弁解しているつもりですが、客観的には、「私が検討しないことにしました」または、「私も見て見ぬふりをします」と言っているのに近いですね。ただ、同情するのは「1000年に1回の津波が 原発稼働中に来るか来ないかは、誰にも分らない」ことだからです。津波の高さの予想が大きかったために、発電所建設の仕事を失うくらいならば、だれでも想定外にしたくなるのだと思います。ただ、その事情はわかりつつも、だからと言ってリスクが無いように説明してしまうのは、人間の弱さそのものであります。同じ状況にあって、どれだけの人が、本当の事を言えるでしょうか?また、本当のことを言う人に会社は説明させるでしょうか? すべては、人の罪深さに原因があります。

『18:26 正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。

18:27 しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。』


「悪人であっても悔い改めれば赦される。正しい人であっても悪の道に落ちれば裁かれる」、それが神様が語る自己責任の宣言です。神様の前に責任を持つのは民族や家族ではなく、一人一人の個人であるというのです。つまり、神様は祖先ではなく、今のあなたに問うているのです。これはとても近代的な考え方です。昔からの家長制度を維持するユダの人々には、聞き慣れない言葉です。 

 エゼキエルは、もともと祭司でした。紀元前 597年に最初の捕囚になってバビロンに連れていかれ、5年目に預言者として神様から召されました。エゼキエルの与えられた仕事は、この預言書に書かれています。

エゼキエル『3:16 七日の後、主の言葉がわたしに臨んだ。

3:17 「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの家の見張りとする。わたしの口から言葉を聞くなら、あなたはわたしに代わって彼らに警告せねばならない。3:18 わたしが悪人に向かって、『お前は必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたがその悪人に警告して、悪人が悪の道から離れて命を得るように諭さないなら、悪人は自分の罪のゆえに死ぬが、彼の死の責任をあなたに問う。3:19 しかし、あなたが悪人に警告したのに、悪人が自分の悪と悪の道から立ち帰らなかった場合には、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。3:20 また、正しい人が自分の正しい生き方を離れて不正を行うなら、わたしは彼をつまずかせ、彼は死ぬ。あなたが彼に警告しなかったので、彼は自分の過ちのゆえに死ぬ。彼がなしてきた正しい生き方は覚えられない。また彼の死の責任をわたしはあなたに問う。3:21 しかし、あなたが正しい人に過ちを犯さないように警告し、彼が過ちを犯さなければ、彼は警告を受け入れたのだから命を得、あなたも自分の命を救う。」』


 神様は個人の責任を問うことによって、「親やその親たちの罪のせいで、自分たちはバビロンの捕囚となり、異国の地で働かされている。自分たちは何も悪いことはしていない、只の被害者だ」という責任逃れを、問うたのでした。

  さて、このように近代的な考え方を伝えたエゼキエルですが、その考え方は新約聖書ではどうなっているでしょうか。新約の時代、イエス様の頃になっても、人々はまだ古い考え方に捕らわれていました。

ヨハネ『8:39 彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。』

 先祖のアブラハムの功績によって、私たちも祝福されるはずですと、イエス様を殺そうとしている人々が言いましたが、イエス様は、あっさり否定します。あなた方には、アブラハムと同じ功績が無い とですね。

そして、「親の罪が子に報いる」方はどうでしょうか?

ヨハネ『9:2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」9:3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』

  ほとんど、エゼキエルの言ったことではありませんか。ただし、似ていますが大きな違いがあります。エゼキエルは、親の罪ではなく本人の罪の報いだと言ったのですが、イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言っています。

ただ、エゼキエルの語った神様の言葉には、続きがあります。

『18:32 わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。』

 神様は「本人の罪の報いを受ける」と言いますが、決して罪の報いを望んでいるわけではありません。罪から立ち返って、神様の栄光が表されることをお望みなのです。

  このことはイエス様の言葉に通じます。「生まれつき目が見えない」という事は辛く、苦しいことであろうと思いますが、そのようなことさえもが「神の業がこの人に現れるためである」とイエス様は言いました。・・・この言葉にはおどろきを憶えます。でも、全てが、神様のご計画だと私たちは信じます。どんな罪人にも、救いが用意されているのです。だから、生まれつき目が見えない人にも救いが用意されています。私たちは見かけだけで、良いことと悪いことに分けます。しかし、私たちが良いと思うこと 悪いと思うこと、すべては神様の栄光を表すために、私たちを悔い改めさせ命を与えるために、神様が下さったものです。ですから、私たちは、好みや都合で良い悪いと言ってしまいますが、本当は悔い改めのために良いものを頂いています。全ては、私たちに命を与えるための導きです。この神様の導きにゆだねてまいりましょう。